Sunday, December 27, 2009

《中国哲学研究》第24号

东大中国思想文化学研究室(原中国哲学研究室)的研究生刊物《中国哲学研究》第24号已经出版。本号为佐藤慎一老师退休纪念专集,以佐藤老师亲笔之作《歴史の変革と歴史学の変革-中国史解釈をめぐる民国期の論争について-》为首,汇集了在读博士生以及毕业生的优秀论文多篇。欢迎选购。编辑单位网站可由此链接

東大中国思想文化学研究室(もと中国哲学研究室)の院生による雑誌『中国哲学研究』第24号が出版されました。今号は佐藤慎一先生の退官紀年特集となっており、佐藤先生みずから執筆された「歴史の変革と歴史学の変革-中国史解釈をめぐる民国期の論争について-」をはじめとして、在籍中の博士課程生や卒業生の論文が多く掲載されています。購入は編集組織、「中国哲学研究会」のサイトからどうぞ。

Thursday, December 24, 2009

研讨会(中文版)


在复旦大学举办的这次研讨会,是我在中国参加的第一个学术会议。由于与会学者大多都是知识界名人,会场的气氛异样热闹,这本身对我来说是个很新鲜的刺激。

研讨会

復旦大学でのシンポジウムは、わたしにとって中国で初めての学会参加となったわけですが、発表者の多くが著名人であったためか、会場の熱気がより異様なものに感じられ、それ自体が新鮮な刺激でした。

Tuesday, December 22, 2009

复旦大学《抽象艺术》课程

前回触れた復旦大学の「抽象芸術の審美と創作」ですが、関連するサイトを見つけました。
ひとつは受講生(同時に出品者)の作品と感想が見られるブログ
もうひとつは、授業(第1回)風景

いずれも、授業担当者許徳民氏の運営するサイトです。

Saturday, December 19, 2009

复旦偶照


12月13日から17日まで上海の復旦大学でシンポジウムに出席してきました。ふだんは持ち歩かないカメラを持っていきましたので、数枚をアップしておきます。


まずは、通りに面した塀に取り付けられたエンブレム。

大江健三郎谈新作

大江健三郎最近发表一篇小说《水死》。《朝日新闻》2009年12月19日刊登有关报道,现将其部分内容摘译如下:

Saturday, December 12, 2009

旷新年论张承志:日本与中国(中文版)

以下是11月23日的帖子的中文版。


《读书》最新一期登载的旷新年《以卵击墙》将张承志的著作活动比喻于村上春树的“卵”,对其近著《敬重与惜别:致日本》(中国友谊出版公司,2009年)进行评论。据介绍,村上春树的那则有名的演讲早已翻译成中文(李华芳《与卵共存:村上春树耶路撒冷文学奖获奖辞》)。中国知识界素来敏于全世界的最新动向,其反应之快总是让人惊讶。旷新年援引村上的演讲,将张承志的日本论述扩大到日本和中国的现代性问题,展开了很耐人寻味的一则评论。

Friday, December 11, 2009

先上课后选课

ある友人から、彼が北京大学で開設することになった集中講義の案内が送られてきました。この記事の標題はその履修方法で、要するに「まず授業に出てからあとで履修選択してください」というもの。と言っても、まず試しに一度聞いてみてから履修するかどうか決めていいですよ、という日本の大学で一般に行われているやり方ではありません。履修説明によると、「今学期の履修登録期間はすでに終了しているので、来学期に改めて登録してください。」というもの。つまり、この授業は当初の履修計画外のものなので、来学期の科目として登録しなおしてください、でも、授業は今学期中にやってしまいますよ、ということです。

Saturday, November 28, 2009

清华国学院

『中華読書報』2009年11月4日のトップ記事を見て、一瞬、驚きました。「清华国学尝试“体制特区”办院模式」(清華国学、「体制特区」経営モデルの試み)という文章です。1920年代のころ、清華研究院国学門は、清華国学院として知られ、梁啓超や王国維、陳寅恪、趙元任(いわゆる「四大導師」)という清末民国初期の中国知識界を代表するスター的存在が中心となって、多くの学者が輩出しました。清華大学は解放後の学部再編制で理工系の総合大学になりましたが、近年来、人文社会系の学科再建に力を入れ、強力なスタッフを集めています。

Friday, November 27, 2009

“民族认同与历史意识”国际研讨会

上海复旦大学文史研究院与荷兰莱顿大学自12月14日至16日共同主办以“民族认同与历史意识:审视近现代日本与中国的历史学与现代性 History, Identity, and the Future in Modern East Asia: Interrogating History and Modernity in Japan and China”为题的国际学术研讨会。会议网站请由此进入

上海の復旦大学文史研究院とオランダのライデン大学が12月14日から16日までの期間、「ナショナル・アイデンティティと歴史意識:日本と中国の近現代における歴史学とモダニティを問う History, Identity, and the Future in Modern East Asia: Interrogating History and Modernity in Japan and China」というテーマで国際シンポジウムを開催します。上のリンクから入ることができます。

Tuesday, November 24, 2009

又一本重要著作

我的同事也是畏友林少阳在日本出了新著《「修辞」という思想:章炳麟と漢字圏の言語論的批評理論》(現代書館、2009年11月),和刚出版的坂元弘子《連鎖する中国近代の“知”》一起,都会成为今后研究章太炎甚至中国现代思想史绝不能绕过的重要著作。

わたしの同僚であり友人でもある林少陽さんが新著『「修辞」という思想:章炳麟と漢字圏の言語論的批評理論』(現代書館、2009年11月)を出版しました。坂元ひろ子氏の『連鎖する中国近代の“知”』とともに、今後の章炳麟研究、ひいては中国近代思想史研究が避けて通ることのできない重要な著作になること、間違いありません。

Monday, November 23, 2009

旷新年论张承志:日本与中国

下で紹介した、『読書』最新号掲載の旷新年《以卵击墙》は、張承志の著作活動を、村上春樹の「卵」に喩えて、その近著、《敬重与惜别:致日本》(中国友谊出版公司,2009年)を紹介・評論しています。村上春樹の有名な演説もまた、とっくに中国語に翻訳されているということで(李华芳译《与卵共存:村上春树耶路撒冷文学奖获奖辞》)、このあたりは全世界の動向に関心を張り巡らしている中国の知識界らしい素早さで相変わらず驚きですが、曠新年氏は、これを引きながら、張承志氏の日本論を、日本と中国のモダニティの問題へと広げて、味わい深い評論を展開しています。

《读书》2009年第11期目录及其他

『読書』最新号(2009年第11期)の目次(主なもの)は以下の通りです。
何梦笔《经济转型:规则与选择》
陈彩虹《以邻为壑的货币政策》
钱正英、马国川《中国水利六十年(下)》
李泽厚、刘再复《存在的“最后家园”》
白永瑞《思想东亚》
丁元竹《理解均等化》
钱永祥《政治哲学作为道德实践》
刘丽蓉《人世禁欲、资本主义精神与梅毒》
柄谷行人《重建共产主义形而上学》
强世功《“不成文宪法”:英国宪法学传统的启示》
徐斌《公民的尊严:立法vs.司法》
张晓唯《竺可桢日记里的大学秘史》
刘东《文字之缘与题跋意识-关于宋代文人心态的三通批注》
利求同《私家藏书的“不散之散”》
吉柄轩《国弱无外交·使弱交不成》
旷新年《以卵击墙》
黄专《一个现代叙事者的多重世界》
杨伟《在《夕子的近道》上邂逅大江健三郎》
洪作稼《古典音乐指挥家纵横谈(上)》
汤双《曾经发生在德国的反爱因斯坦运动》
马万利《传道授业与篡改历史》

たまたまなのかどうなのか、日本関係の文章が多いですね。柄谷の文章は時々掲載されます。もちろん、彼自身は中国語を解さないので、だれかが翻訳しているわけです(訳者名が抜け落ちることがよくあるのがちょっと問題ですが、それはさておき)。今回の文章は、どうやら『トランスクリティーク』の中国語訳がまもなく完成(?)か出版(?)されるのに併せて、原版出版後の彼の思想について、彼自身が中国語読者に紹介しているものです。旷新年《以卵击墙》は村上春樹の例のイスラエルでの受賞講演を引き合いに出しながら、張承志の新著《敬重与惜别-致日本》を紹介したものです。張承志は清華大学付属高校時代に紅衛兵となり(彼自身の回顧によると、「紅衛兵」の名付け親だそうです)、内モンゴルの草原で下放生活を送り、80年代後半以降、日本でもその名を広く知られることになった作家です。彼は長期にわたって日本での生活や見聞を《天涯》に連載しており、ユニークな日本論を展開しています。そのほか、大江の名前も挙がっていますね。大江、村上、柄谷、とそれぞれまったく異なったタイプの三人ですが、日本の思想状況を知る窓口としては、おそらく(賛否いろいろあるとしても)、たぶん広く国外で共有されているとおりでしょう。
2年ほど前、汪暉と黄平が突如編集の職から解任されたことは、中国国内でいろいろな憶測と反響を呼び、日本でもその筋の事情通らしい人々が、紹介や評論を展開していました。しかし、その後の『読書』については、目立った分析がありません。国内各所で開かれた事件をめぐる座談会の中で、『読書』をずっと支え続けてきたもと編集代表者の董秀玉が、若干いらだたしげに、「更迭という事件にばかり焦点が向けられていて、『読書』を引き継いだ次世代の編集者に対する関心が乏しすぎる。」という趣旨の発言をしていたことを思い出します。彼女は同時に、すでに編集スタッフの一員として長いことスキルを蓄積してきた新編集陣が、そんなに簡単に『読書』の精神を終わらせてしまうはずはない、『読書』は世代を新たにしてより発展していくに違いない、ということをも述べていました。確かに、その後の『読書』には変化がありました。今号の目次にも顕著なように、巻頭に近いところに改革開放以後の経済・法制などの変化とその成就を回顧的に振り替える記事が増えたこと、李沢厚のような今日的文脈ではもはや当たり障りのなくなっている文化人の登場が増えたこと、などはその一部です。しかし、韓国の白永瑞にせよ、柄谷にせよ、90年代後半以降、日本、中国、韓国の間で盛んになった知的交流の過程で相互に見出された知識人ですが、そのプロセスには汪暉や黄平、そして『読書』が積極的に関わっていたのでした。記事の書き手もずっと継続しており、その点でも、その後の『読書』は、編集者の交代によって当然起こるべき変化を見せつつも、やはり、もとの『読書』としての性格をほぼそのまま継承することに成功しています。
現象を追いかけて、それを適確に伝えることは重要なことです。しかし、対象を把捉するための道具が相変わらずの二元論的図式やイデオロギーを前提とした権力論的分析の枠組みでは、現象の認識どころか、イデオロギーや「ためにする議論」の上塗りに終始してしまうのではないでしょうか。

Wednesday, November 18, 2009

中国近现代知识的互动

坂元弘子教授(一桥大学)新近出版的一本专著《連鎖する中国近代の“知”》(研文出版、2009年11月),汇集了她自1980年代至今发表过的中国近现代思想史论述,分别论及谭嗣同、章炳麟、熊十力、梁漱溟、李叔同等人物,是一本不错的思想史著作。正如作者在其后序中所说,中国近现代思想史研究在日本“甚至面临成为‘绝学’的危机”,所以,出版这本著作的意义应该是很大的。自从佐藤慎一老师1996年出版《近代中国の知識人と文明》(東京大学出版会)以来,时隔十几年又出了这么一本俯瞰近现代思想史的大师级专著,岂不是一件快事!

一橋大学の坂元ひろ子教授の新著『連鎖する中国近代の“知”』(研文出版、2009年11月)は、1980年代以降に発表された中国近現代思想史論考をまとめたもので、譚嗣同、章炳麟、熊十力、梁漱溟、李叔同などをそれぞれ取り上げて論じた思想史の好著です。「あとがき」のなかで触れられているように、日本の中国近現代思想史研究は「「絶学」の危機に面しているとさえ思われる」状況ですので、本著の出版には大きな意義があると言えるでしょう。佐藤愼一先生が1996年に『近代中国の知識人と文明』(東京大学出版会)を出してからすでに十数年、ようやくまた斯界を代表する論者がこうして近現代思想史を俯瞰的に収めた著作を発表したという点でたいへん重要です。中国に関心がある多くの方に読んでもらえれば、と思います。

Thursday, November 12, 2009

崔健的“痛心疾首”和“不合时宜”

たまたま手にした『中国青年報』2009年11月4日をめくっていて、「崔健:廉颇老矣」と題する短いコラムが気になりました。書き手は杨芳という人。崔健といえば、80年代後半に登場した中国のロック歌手です。「廉颇老矣」とは、戦国時代に趙国の名将として武勇をはせた廉頗のこと。後に野に下り、魏国に身を寄せていたころ、趙が秦の度重なる攻撃で劣勢に立たされ、再び彼を呼び寄せようとしたところ、様子を伺いに行った使者が「食欲こそあるが、もう年をとってしまっている」と報告したために、趙王は結局、呼び寄せるのをあきらめました。このことから、能力も志をあるのに、老けてしまったと評価されてあるべき地位を与えられない人の不遇さへの感嘆として、「廉颇老矣」ということばがよく使われているようです。
さて、崔健の場合はどうなのでしょう。以下に、全文を訳しておきます。

このロック歌手の名前をよく見かけるのは、音楽のチャート上ではなく、娯楽ニュースのタイトルだ。数日前のこと、かつてのゴッド・ファーザーは、例によって中国のミュージシャンたちにけんかを売った。彼が言うには、今では科学技術が発達して、ソフトを使えば修正できてしまうので、「歌のへたくそなやつがうまいやつになっている」。
アニキのつらさにはため息をつかざるを得ないが、アニキの時代錯誤ぶりにもむせびがもれる。今の人々が髪の毛を切るのに大金を惜しまないのに、正規のCD一枚すら買おうとしないのはなぜか、「快男快女」(ファン投票で選ばれて芸能界にデヴューするアイドル歌手たち)のコンサートには行きたがるのに、朦朧詩の詩集一冊すら買おうとしないのはなぜか、近代建築を文化財であるかのようにパッケージしようとするのに、祖先が遺した文化遺産には見て見ぬ振りをするのはなぜか。きっとこれらの理由を彼はわかるはずもないのだろう。
彼はただ、人々が世俗に呑み込まれていくことを歯がゆく思いながら見つめることしかできない。わたしもあなたもそうであるように、もうとっくに「一无所有」(崔健の代表曲)は聞かなくなってしまったし、幼いころの夢についても語らなくなってしまった。ただ、時として新聞の片隅に、年取った男がぶつぶつ言っているのを見つけては、それをまた投げやって、退屈な日々を繰り返すのである。

Thursday, October 29, 2009

nomos、礼、习惯法和普遍性

ネイション・ステイトに対しては批判的に考えることがいつのころからか当然のようになっていますが、中国ではむしろ、いかにしてそれを形成していくのか、ということがより現実的な問題として共通の関心を呼んでいるようです。そこには、新しい60年の前半に展開された急進的な社会主義化に対する反動とも言える、文化主義が強く作用しているのでしょう。『読書』2009年第10期、许章润《“习惯法”的当下中国意义》は、人民公社制に造反して秘密裏に生産請負制を導入した安徽省小崗村18世帯農家の「義挙」について、次のように述べています。

小崗村18世帯農民の「聚義」は、「人民」がみずから政治立法によって解放を実現した(中略)ということを象徴しているだけではなく、「人民」が自然の法にしたがったということ、つまり、信義と公義のあるべき姿を示す人間社会の秩序に導かれつつ、「習慣法」のルールや手続きにのっとって、人為的法に対する拒絶をきっぱりと行ったのだ。したがって、これは理性による自己立法として、仁愛、理知、信義、平和の端緒に対する追求も含めて、一国の内部における永久平和という意味において、悪法に対する見事な揚棄なのであった。(中略)したがって、このケースだけをとってみても、「習慣法」によって、民族全体が道徳によって自らを救う道へと導かれていくのだと言ってもいいだろう。

明らかに、この文脈では「習慣法」が自然化されており、しかも、自然化された範疇のなかには道徳も含まれています。つまり、ここで文化は自然化されており、文化的「人民」の自己救済は、「人為」から「自然」への自己解放によって成し遂げられると言うのです。作者は同時に、「「習慣法」の発見と再発見は、中国というネイション・ステイトの構築という歴史的発展の有機的構成部分であり、未来の人類の永久平和における世界的法秩序を準備する蓄積となる。」と述べています。
さて、同じ号の『読書』には、シャディア・ドゥルーリー(Shadia B. Drury)のシュトラウス論の一つ、The Political Ideas of Leo Straussの中国語版(《列奥·施特劳斯的政治观念》,新星出版社)に対する訳者解題として、王利《施特劳斯的启示》という文章が掲載されています。正確には王利氏は訳文の校訂者という位置づけですから、日本の習慣的な言い方では監訳者ということになるのでしょう。王氏はシュトラウスの「自然」とはいったい何なのか、と問いかけつつ、それが結局のところはユダヤ-キリスト教的な「神学-政治」のフレームワークを相対化するものではないと述べます。すなわちそこでは、人間性の普遍とは、神性の普遍であるとしか理解されないというのです。そこで、むしろ非西洋世界において、シュトラウスから受け取るべき問題の一つは、ノモスとは何なのか、ということになると彼は言います。

わたしたちのノモスとは何なのか。ノモスはシュトラウスが自然(ピュシス)と一対で用いたものであり、自然の発見は政治哲学の始まりであって、シュトラウスにとっては西洋文明の始まりであった。しかし哲学もなく、神の啓示もない民族にとっては、ノモスの意義こそ重大なのである。その本来の意味からすると、ノモスには習俗、伝統、習慣などの意味がある。わたしたちの文化伝統に照らすと、「礼法」や「礼俗」に相当するだろう。したがって、シュトラウスのわたしたちに対する最大の示唆は、わたしたちの「礼法」秩序とは何なのかを問いただすことである。

シュトラウスのnatural rightを、王氏は「自然の正当さ」と翻訳しています。しかし、その「自然」とはいったい何なのか、神を共有しない非西洋的世界において、「正当さ」はどこから賦与されることになるのか、という問いは、もう一つの「自然」を求めることによって明らかにされるのではなく、むしろノモスの側を徹底的に問うていくことによって探究されるべきであり、そこに政治学が生まれてくると、彼は述べます。
中国ではもう十年近くシュトラウス・ブームが続くと言います。ブームの土壌がどのような知的雰囲気のなかで形成されてきたのかは、許章潤氏の議論からも垣間見えることでしょう。おそらくそれは、康有為以来の普遍主義的モダニティ論と系譜が重なり合うものです。そこで称揚されている「普遍」の意味を厳しく吟味する必要があることはもちろん言うまでもありません。
なお付言しておくと、ドゥルーリー氏はカナダ在住の研究者です。シュトラウスの議論を新保守主義の台頭を助長する思想であると批判する声の代表的論客であるようです。王利氏は彼女のことを「自由派知識人」と呼んでいますが、これは混乱を招く言い方かもしれません。たしかにドゥルーリー氏は、アメリカのリベラル・デモクラシーの価値を高く評価しています。しかしそれはリバタリアニズムにつながっていくのではなく、むしろリベラル・フェミニストとして妊娠中絶やアファーマティヴ・アクションに対しても言論を行っているのだそうです(柴田寿子『リベラル・デモクラシーと神権政治』)。

Wednesday, October 28, 2009

Q&A集已经更新

请从链接进入。

Tuesday, October 20, 2009

汉语学习答问集

主に駒場で中国語一・二列を受講している学生さん向けに、新しくQ&A集を始めることにしました。以前のメーリングリスト(石井剛の中国語クラス)で公開していたものも、徐々にこちらのほうに移してくる予定です。本ブログ右側欄外の「Links」から入ることができます。

Friday, October 16, 2009

冬学期课程介绍

「近現代中国思想史基本文献講読」
時間と場所:木曜2限/本郷キャンパス法文一号館218教室
教材:劉師培『小学発微補』(寧武南氏民国二十五年刊刻『劉申叔先生遺書』本)
白文を現代中国語で発音して、日本語で詳しい訳注を附していく精読の授業です。翻訳と注釈は日本語が必ず要求されますが、授業中の発言は中国語でもかまいません。

本课程以精读和译注为内容,学生被要求将没有标点的原始文本翻译成现代日语,并加以详细的注释。在课堂上,不排除用汉语发言,但翻译和加注的工作必须以日语完成。

Monday, September 28, 2009

Talkin' China

Angela Pascucciはイタリアのジャーナリスト。Talkin' China (Roma: Manifestolibri, 2008)というその近著が『中華読書報』2009年8月19日で紹介されています。温鉄軍(三農問題専門家、郷村建設運動推進者)、于暁剛(環境保護運動家)、莫少平(弁護士)、崔之元(清華大学教授)などの著名人から出稼ぎ労働者に至るまで、さまざまな立場と背景の人に対するインタヴュー集ということのようです。記事は汪暉が同書に寄せた序文の中国語訳ですが、その中ではこう述べられています。

今日の西側メディアにおいては、「中国脅威論」の呼び声や、中国にはデモクラシーや人権がないといった指摘があたりまえのことになっている。これらの観察にはそれなりに根拠があって、情勢の変化にともなって大きく変わっていくものでもあるが、ここではそれに対して具体的に私見を述べようとは思わない。わたしが関心を覚えるのはもう一つの問題だ。つまり、こうした報道が多くは中国を完全な客体であると見なしており、この巨大な社会のなかにはさまざまな社会勢力や、思想的立場のちがいがあって、それらが駆け引きや、協調、衝突を繰り広げているということがそこではあまり表現されていない、ということなのだ。この本の書名が「話す中国」であるということが暗示しているのは、このような「チャイナ・ウォッチング」において、中国は沈黙を保った、声なき存在だということだ。

文章のなかでは、革命時代にアグネス・スメドレーやエドガー・スノーら、西側ジャーナリストが果たした役割について肯定的に言及されています。かれらは、「中国に対する観察や報道を彼ら自身の社会が直面している問題と結びつけて考えていた」のであり、その結果、「みずから中国の大いなる実験に参加していった」のだと。「参加」ということばを、何も、何らかの立場へのコミットや肩入れという風にとらえる必要はないでしょう。被写体として見つめるだけでなく、当事者の息づかいに寄り添うこと、それによって、単なる「観察」からは見えてこないものが見えてくるのではないか、それはある種の希望へとつながるものではないか、そのようなことがこの中では語られているのだと思います。ネットで検索する限り、手に入りにくい本のようですが、ぜひ手に取ってみたい一冊です。

Sunday, September 6, 2009

如何言说文化中国

李梅《如何言说文化中国》(文化中国をどのように語るか、《中华读书报》2009年7月29日《文化周刊》)は、5月に山東大学が主催したシンポジウム“传统与现代:中国哲学话语体系的范畴转换”を切り口にして、「中国・哲学」の可能性について論じています。中国に哲学はあったのか、という問題はすでに話題としては古いものになりましたが、確かにあらわれては消え、消えてはあらわれる、古くて新しい問題です。李氏の文章は2001年頃からのこの問題をめぐる言論の動向をコンパクトにまとめているので、一部抜き出しながら以下に紹介しておきます。

2001年9月、デリダは中国での旅程で、百年以上前のヘーゲルに応答するかのように、「中国に哲学はない、あるのは思想だけだ」と述べた。この事件は、その後、中国哲学の「合法性」をめぐる議論の中で繰り返し取り上げられたが、それは一つの導火線に過ぎない。

「中国哲学の合法性」というのは、当時中国社会科学院哲学研究所にいた鄭家棟氏が取り上げた問題で、それはフランスのジョエル・トラヴァール氏や北京大学の張祥龍氏が論争を引っ張りながら、中国における「哲学」の困難と可能性について興味深い話題を提供したのでした。

1986年には、張汝倫が異文化間の概念や術語の「通約不可能性」について体系的に論じ、相異なる理論は、同一の概念や術語を使うことが仮に可能であっても、それらは各々の理論の中では、相異なった意義を有しているとした。20世紀初頭以来の中国近代哲学は、西洋の哲学概念と言説体系を用いて中国の伝統哲学思想を分析し論じた。したがって、世界の学術と「平等な対話」を求めるという時代の要求は、中国哲学の既成の語り方に疑義を投げかけただけではなく、学理においても、概念の「通約不可能性」というアポリアが中国哲学の「合法性」に関する思考にぶつかったとき、こうした「西洋によって中国を解釈する(以西释中)」、「さかのぼって意義を当てはめる(反向格义)」、「漢語で胡(西)を語る(汉话胡(西)说)」といった語り方は、考察と批判の対象になり、アカデミズムの視野に入って、話題の焦点にならざるを得なくなる。雑誌『文史哲』が「伝統と近代:中国哲学言説体系のパラダイム転換」というテーマでシンポジウムを開催したのは、まさに時宜にかなったことであった。

シンポジウムの発言者としてここに挙げられているのは、張汝倫(復旦大学)、曾振宇(山東大学)、王中江(清華大学)、丁冠之(山東大学)、陈来(北京大学)です。共通の議題になったのは、厳復による「気」や「天」概念の読み替えをめぐる西洋の哲学概念・方法の移植と中国伝統術語の意義転換の問題であったようです。

王中江はさらに述べる。概念の還元には基準があるべきだ。儒学という概念について言うならば、それを還元するのに、宋明理学の儒学にまで還元するのか、それとも董仲舒のころの神学化した儒学まで還元するのか、またそれとも孔子の時代の儒学にまで還元するのか。西洋概念を大胆に使用することも可能だろう、今日の中国哲学はすでに、単純な還元論を克服しているのだから、と。西洋哲学出身の張汝倫はこれにただちに反論を唱えた。そんなに簡単に克服できるはずはない、西洋の概念は単純に持ってきて使えるというものではない、と。彼は、「ちがいを意識する」ことを基礎にした上での交通と融合を主張し、西洋概念の伝統や理論的背景を無視した、学界における「附会」や概念使用の傾向を批判する。

張汝倫氏はほかにも「具体的な問題をもっと論じるべき」との発言をしているということです。この一言こそが、この問題をめぐるかしましい議論のあら熱をさます肝なのかもしれません。

Tuesday, August 18, 2009

中国姓氏

王泉根《中国姓氏的当代形态》という文章が伝えるところによると、中国で使われている名字2万3千のうち、129の常用名字が総人口の87%を占めているのだそうです。(ちなみに、トップ3は李7.9%、王7.4%、張7.4%)おもしろいのは、新しい名字の傾向に関する分析です。例えば、一人っ子政策の結果、祖父母4人の家系を嗣ぐ子供がひとりだけになってしまったあるケースでは、新たに「点」という名字をその子供につけて、「灬」(四つの家系を表す)がともに「占」有する、の意を表すことにしたのだそうです。(この話自体は1990年代初めに当時の中国語の先生だった呉先生から聞いたことがあります。)また、個性豊かな新姓として、「趙一A」とか、「奥斯鋭娜王」のようなものもあるとか。
なぜこのような現象が起こるのかというと、名字の決定と使用については公民の自主権が保障されているからのようです。王氏によると、

「民法通則」第99条の規定では、「公民は氏名権を有し、自らの氏名を決定し、使用し、規定に従って改変する権利を有すると共に、他人による干渉、盗用、なりすましを禁止する権利を有する。」とある。

のだそうです。多民族国家である中国では、そもそも「中国人のような」氏名を常識的に識別し判断することは困難です。「愛新覚羅」のような満族の名字は有名ですが、それ以外にも、例えばモンゴル族のようにそもそも名字という概念が希薄な民族もあり、一律「姓氏」を名乗らなければならないというのは不合理です。「氏」と「名」が一対となって個人を名指すのに使われるというのは、もちろん漢族の伝統にしたがっているのですが、その名字にしても、はじめから漢族であることを示していたわけではありません。王氏は言います。

わたしたち中華民族は漢族を主体とし、各少数民族の長期的な融合によって形成されてきた。民族文化の融合の過程では、多くの少数民族が漢文化の影響を受け、自民族にもとあった氏名制度(父子連名、有名無氏、複数音節名字など)を漢族の習慣的な氏名形式に改めた。例えば、複数音節名字の単音節化のように。わが国の歴史書の記載に現れるきわめて多数の二字姓、すべての三字姓、四字姓、五字姓は、いずれも古代の少数民族の名字を音訳したものであり、時代と共に、こうした複音節名字のきわめて多数が、単音節の名字に改められた。

実際、モンゴル族の中にも、自分の名前(漢字を当て字として使っている)の最初の文字を、子供の名字として登録している例が見られます。逆に言うと、単音節名字でいかにも漢族らしい名字であっても、上の引用のような経緯で、もとは少数民族の血統にたどり着くという例は数多くあります。
新しい名字の出現については、紛々たる議論を巻き起こす可能性がないわけではありませんが、そこに感じられるおおらかさには、名字のかたちを「国民」の要件と結びつけようとする手つきとはまったく無縁な小気味よさがありませんか。

Sunday, August 16, 2009

鲁迅著译编年全集

《鲁迅著译编年全集》,人民出版社,2009年7月刊

主编止庵回答《中华读书报》采访时说:
人民文学出版社“2005年新版《鲁迅全集》修订概况”称:“根据鲁迅著作的出版规划,将以《鲁迅全集》、《鲁迅译文集》、《鲁迅辑录古籍丛编》、《鲁迅科学论著》来分类整理出版鲁迅的著作。”我们这套书,大概相当于《鲁迅全集》、《鲁迅译文集》和《鲁迅科学论著》中鲁迅自己作品的全部,加上《鲁迅全集补遗》中可靠的篇章,以及到《编年文集》付印为止新发现的鲁迅佚作。单就鲁迅创作来说,增补了四十篇左右。另外还收录了鲁迅的全部日文作品。(根据该报7月22日报道)

想看全文请点击进入“光明网”

Wednesday, July 8, 2009

高考状元

「状元」といえば、科挙の最終試験でのトップ合格者のことですが、今日では、全国統一大学入試における各省最高得点者のことを指すようになりました。最近の「状元」たちの動向について『中華読書報』2009年5月20日は、《中国高考状元调查报告》に基づいて、次のような情報を伝えています。

1977年から1998年、大学入試状元は男子が目立って多数を占めており、男子状元が64%、女子状元が36%だった。1999年から2008年は、女子状元が男子状元より多くなり、女子状元がおよそ52.36%、男子状元がおよそ47.64%となっている。おおざっぱに見れば男女状元は拮抗しているが、女子状元の比率は年々上昇の傾向をたどり、1999年の34.78%から、2008年の60.00%へと、2倍近くに増えている。

データによると、1999年から2008年の間、北京大学がわが国各地区の大学入試状元たちからいちばんの人気を集め、入学した状元は385人にのぼる。(中略)清華大学がそれに続く255人で第2位、その次は、2005年から内地生募集を始めたばかりの香港大学の18人で、第3位。復旦大学が16人で第4位、香港科学技術大学と中国人民大学がそれぞれ9人で第5位となっている。

ほかに、人気専攻としては経済学・経営学が非常に多いほか、基礎科学がそれに続いていること、入試状元が必ずしも「職場状元」ではなく、多くが研究者の道を歩んでいること、入試状元の四割が卒業後に留学していること、などが挙げられています。この統計は、「中国校友会网」というサイトが公開したもので、ここからもリンクできます。

Monday, June 22, 2009

蟹工船

小林多喜二『蟹工船』と言えば、日本のプロレタリア文学の最高峰として中国でも早くから紹介されています。『読書』2009年第6期の秦刚《罐装了现代资本主义的〈蟹工船〉》によると、1929年の出版後まもなく、現代劇作家として著名な夏衍がすでに書評を発表しているほか、1930年には潘念之によって中国語版が刊行されているそうです。海外文壇の動向にとても敏感な中国らしく、日本での最近の「蟹工船」ブームを受けて、2009年1月には新訳が出版されてます。秦剛氏がここで紹介しているのは、しかし、この訳林出版社版ではなく、出版準備中の《蟹工船》漫画版(秦刚、应杰译,人民文学出版社即出)のほうです。これは、『劇画「蟹工船」:小林多喜二の世界』(白樺文学館多喜二ライブラリー企画、藤生ゴオ作画、講談社、2008年)の翻訳ということで、島村輝氏の解説もしっかり掲載されているのだそうです。
この文章は、ブームの背景にある日本社会の現状についても丁寧に紹介しています。例えば、「ロストジェネレーション」、非正規雇用、「ワーキングプア」、自殺率の上昇などなど。
プロレタリア文学といえば中国ではひどく教条主義的イメージが強いようで、多喜二の知名度と好感度はたぶん相反している可能性があります(魯迅すらもそうですから、しかたがないといえばそうなのですが)。ましてや、戴錦華氏の指摘を待つまでもなく、マルクス主義的、階級論的言語が分析のツールとしての効力を完全に失って久しい現在、マンガという形式が有効な選択肢になるというのも肯けます。

Saturday, June 20, 2009

“为鸡以求时夜”

很高兴收到了昨天刚刊行的一本新书,是我的老师中岛隆博先生的《庄子:为鸡以求时夜》(岩波书店,2009年6月)。这是岩波书店近年来系列出版的一套丛书中的一本,该丛书系列名为“书物诞生”,其微意便是以崭新的视角阅读人类史上具有重要影响的经典作品,从而重新认识经典的无限魅力所在。以通俗的语言阐释经典的工作需要对经典作品本身的精深认识和博学强记的广泛知识,一般年轻学人所难以胜任。这套丛书是有“野心”的,因为她不满足于这种需要深厚底蕴的经典阅读方式,一定要以经典的“旧”与阐释的“新”相结合的方法来给经典以“新的生命”。所以,岩波书店选中的每一个作者,除了具备扎实的基本功之外,其思想也都相当敏锐而且新颖。中岛老师的新颖尤为显著,因为他广泛吸收了欧美后现代思想的深刻批判性,其视野之开阔恐怕无与伦比。在本书中,他愿意沿着德勒滋(Gilles Deleuze)的思想去阅读《庄子》(当然这决不等于德勒滋思想的简单搬用。我相信彼岸的德勒滋如果能知道东方有这么一个读者的话,一定会高兴的。因为中岛老师的阅读成立于他自己的求知激情与《庄子》和德勒滋之间最深处的共鸣),而其最为重要的一点为试图在“物化”的概念上追寻《庄子》的核心思想,从而要改变以往以“万物齐同”来概括《庄子》哲学的典型阐释。我也在阅读章太炎的过程中曾对“万物齐同”的说法产生过怀疑,所以很赞同中岛老师切入《庄子》思想的角度。

Wednesday, June 17, 2009

启蒙和enlightenment

『読書』2009年6月号の巻頭記事、邓晓芒《启蒙的进化》は、中国的「啓蒙」と主にカントに代表される西洋近代的「啓蒙」とのちがいを明確に指摘したものですが、内発的近代化論の(不)可能性を冷静かつ客観的に分析している点で、示唆的です。例えば、

実際、李贄の気解放論は、人々がみずからの悟性を用いて自らの独立した人格をコントロールすることを保証するものでないことを顧炎武は見抜いていた。だから彼が示したことは、李贄が理想化したり美化したりした人間性のもう一方の側面、つまり、中国人が理解しているところの束縛のない自由とか個性といったものが実は恐ろしいものであるということなのだった。彼の李贄に対する省察は、わたしたちが今日「文革」に対して行う省察と軌を一にしている。顧炎武のことばにはなんら「間違い」はなく、それはまったく正しいものだったのだ。

中国の近代的啓蒙と西洋の啓蒙思想の大きなちがいはというと、中国の啓蒙思想ははじめから「啓蒙と救亡の二重変奏」(李沢厚)の色合いを有していたこと、つまり、伝統的士大夫の政治的道具論の色合いを有していたことである。啓蒙によって救亡し、中国を振興し、治国平天下をなしとげる。これはそもそも間違ってはいないし悪いことではない。しかし、この視点だけに立脚するというのは、逆に言うと「救亡が啓蒙を圧倒する」ことは必然だということであり、ひいては、「圧倒する」とすら言えず、ただ「啓蒙が救厖に転化した」というにすぎないことにもなる。こうした転化は、啓蒙そのものからすれば、間違いなく退化なのである。

鄧暁芒氏(1948年-)は武漢大学哲学系教授。カントやヘーゲルの研究者。近著に《思辨的张力:黑格尔辩证法新探》(商务印书馆,2008年)。『読書』の文章は、主に彼の師萧萐父に対するオマージュであり、同時に強烈な批判でもあります。いずれにしても、『読書』が最近好んで取り上げる、この「蕭学」哲学は、なかなか気になるところです。
他にも、『読書』2008年12月号には、许苏民《为“启蒙”正名》があります。

Tuesday, June 9, 2009

中国社会文化学会年会安排

请点击进入学会网站。>>

Wednesday, May 20, 2009

世俗与超越(书讯)

中国では学会誌や紀要のような雑誌の形態をとる学術論文媒体は、研究者の成績評定基準として位置づけられています。一方で、そうした評定に直接結びつくことのない論文は、むしろ書籍のかたちで出版されることが多く、そういう場合には国内外の著名な研究者の文章が同時に掲載されることになります。そのような書籍は山ほどあるのですが、ネットでたまたま見かけたものをひとつ。
目次詳細はリンク先にあるとおりですが、近年来、中国国内外で旺盛なバイタリティを発揮している華東師範大学のネットワークの幅広さが十分に示されているものだと思います。「世俗と超越」という問題系を中国の思想的文脈に応用した場合、何が見えてくるのかという問題提起の書物として価値があるのではないでしょうか。

Thursday, May 14, 2009

“拍电影是我接近自由的方式”

「映画を撮ることはわたしにとって自由に近づくためのみちである」--賈樟柯が自ら自身の映画を語った著作《贾想1996-2008:贾樟柯电影手记》(北京大学出版社,2009年)のことばです。“贾想”=jiaxiang=“家乡”。自由に近づくことと郷愁とは、逆向きのベクトルのように感じられるのですが、必ずしもそうではないのだとしたら、どうすればそれは可能になるのでしょう?『中華読書報』(2009年4月8日)の書評(孙小宁)にはこうあります。

中国における近代化の進展のなかで、帰ることができなくなってしまった場所や、取り戻すことのできなくなってしまったものがある。失われてどうしようもなくなってしまっている、こうした映画は見ているとやりきれなくなってしまいそうだが、それでもはっきりと、暖かさをその中に感じることができる、--少なくとも、まだ耳を傾けている人はいるのだ、少なくとも、わたしたちに代わってそうしたやり場のなさを表現してくれる人がいるのだ、と。

“贾想”=jiaxiang=“假想”であれば、こうしたよりそいの暖かさの源と出発点としての想像力が不可欠でしょう。“贾想”=jiaxiang=“假象”の投影が虚無への入口ではなく、想像の出発点になること、それは彼の映画作品自体であるかもしれません。

Tuesday, May 12, 2009

“五·一二”一年

四川省汶川を中心に発生した大地震から丸一年が過ぎました。一年前、5月20日の記事では、被災現場に大量の外国メディアが入っているという事実に対する一種の期待を述べました。ご覧いただければわかるとおり、その期待というのは、政治とかイデオロギーの面での話では全くなく、その逆に、意識的無意識的に思考と認識の方向を規定してしまい、ひいては内面化してしまってすらいる政治やイデオロギーのお仕着せの枠を取り払って、生の現場に入り込むことで、再度、原体験を獲得する契機が今後の中国報道に生かされてくるようになって欲しいという期待感でした。
一年たって、それはどの程度達成されたのでしょう?それを客観的に評価する力はわたしにはありません。しかし、事象認識のパターン化された構造というのはやはりそれほど簡単に変わるものではないのかもしれません。インプットからアウトプットまでの一連の作業をすべて個人的体験の責任の範囲で行うのではなく、さまざまな組織的濾過システムを通過することで初めて情報が情報として成立するという構造にも問題はあるのでしょうが、おそらくそれだけではないでしょう。
わたしの感覚が恐ろしく主観的なものであることは承知の上で、敢えてミステイクを引き受けるとするならば、「干与的対人関係」と「現世内楽観」とでも仮に呼べそうな、一種のエトスのようなものを中国の日常生活の中に見出していくことが可能なのではないか、それは一見したところ政権によるプロパガンダであると判断されがちな報道のあり方にも浸透しているのではないか、と思うことがあります。
「干与的対人関係」とは、大きくは「一方有難、八方支援」というような全社会規模のチャリティ・キャンペーンから、小さくはガード下のスロープを上ろうとしている大八車(もちろんそれは人力で引っ張っています)の後ろからそっと後押ししてやるような、ごく身近な相互扶助のしぐさにまで確認されるようなものです。「しぐさ」というのは、それらがほぼ身体化されてしまっていて、「精神」と呼ぶほどの大上段のものではないからです。「精神」のような理性的レヴェルのものであれば、がれきの下に埋められたまま救援を待つ高校生同士での数日にわたる励まし合いとか、彼らが救助を受ける順番を譲り合うとかいった、限界状況での利他性の発露を説明できないでしょう。
また、「現世内楽観」というのは、あのような状況の中でつねにあらわれる強靱なユーモア精神です。例えば、1950年代末から70年代まで続いた政治社会の混乱に反人道性を見出すのは、今日ではあまりに簡単なことです。しかし、あのような中でも、太鼓やチャルメラ、爆竹の喧噪が途絶えることなく続いていたことの意味にもう少し注目してもいいように思います。それはおそらく、底の見えない絶望や悲しみと表裏一体となることで初めて成立するような、生活のユーモアなのです。映画『太陽の少年(阳光灿烂的日子)』は、むしろ絶望的な状況の中でのきわめてかわいた生命感に戦慄を覚えさせるような作品ではありましたが、それでもその中には、こうしたユーモアの姿がところどころに垣間見えるのでした。より日常的なレヴェルでいえば、政治的儀礼から年中行事、人生の各ステージで行われる通過儀礼に至るまで、ほとんどの場合において静粛さと厳粛さに対するリスペクトとは正反対のベクトルが支配していることからなにが見えるでしょうか。
「干与的対人関係」と「現世内楽観」は二つにして一つのものです。これらのエトスは理性の働きによって知識に昇華されていくと、主に儒家的精神に結晶していきます。もちろん、そこに深刻な弊害がひそんでいることを否定するものではありません。つまり、それは時として、他者の息づかいに対する圧倒的な無理解や攻撃性として表出する危険性を同時に有しているからです。(だから、儒家的精神のなかに過剰な期待を読み込んで、そこに「中国的近代」などの可能性を見出していくような論調に対してはわたしは懐疑的です。)
被写体社会に共通して存在しているらしいエトスを、パタナリズムに支えられたメディアの言語や政治の言語の中から切り分けてくること、それがやがて、独立した精神としてのユニヴァーサルな理性へとつながっていくのではないかと思うのです。

Saturday, May 2, 2009

作为运动的现代主义

东京大学国际哲学教研中心(UTCP)将于5月18日召开国际研讨会,题为“Modernism as Movement”,其具体安排请看链接。

Thursday, April 9, 2009

关于《现代中国思想的兴起》答问

汪暉《关于《现代中国思想的兴起》答问:对象的解放与对现代的质询》をネット上にアップロードしました。《书城》2005年第4期に発表されたインタヴューです。題名を日本語に訳すと「『現代中国思想の興起』に関する問答:対象の解放と近代への問い」とでもなるでしょうか。

我把汪晖《关于《现代中国思想的兴起》答问:对象的解放与对现代的质询》上传到在线文档,并已经发布。

Thursday, March 19, 2009

重新认识“阿Q”(续)

前回紹介した張旭東氏の論文に対して張氏に送った感想(箇条書き)をアップロードしました。中国語ですが、興味のある方はこちらをクリックしてください。

Monday, March 16, 2009

重新认识“阿Q”

ニューヨーク大学の張旭東(ZHANG Xudong)氏は、1980年代の文化ブームから豊かな刺激を受け、フレデリック・ジェイムソンに師事し、今日では中国語の論壇の中で最も注目されるポストモダン批評家です。もともとは、カント以降、とりわけヘーゲル、ニーチェ、ルカーチ、ベンヤミンらの理論言説を武器としながら、グローバル時代における中国の文化アイデンティティをめぐる考察をきっかけに中国国内での名声を獲得した人ですが、近年は魯迅のテクストに対する再解釈でその才覚を発揮しています。その中では、竹内好はもとより、丸尾常喜などの日本における魯迅研究に対する関心が払われています。日本の魯迅研究が中国語論壇で参照不可欠なものになっていることは、「業界」ではすでに常識に属するのでしょうが、自身アメリカに身を置きながら、ドイツ系の重厚な批判理論に対する堅実な理解を基礎として考察を展開する彼の存在は、今後、日本でも注目を集めるのではないでしょうか。
その近作、《中国现代主义起源的“名”“言”之辨:重读〈阿Q正传〉》が上海・華東師範大学の「思与文」サイトにアップされていましたので、リンクしておきます。

Saturday, March 14, 2009

草原上的神圣生活

久しぶりに《开放时代》でおもしろい論文を見つけました。南鸿雁《草原牧者:边缘地带上的天主教会》(2009年第2期)です。ただ、読んでくれいている方には恐縮ですが、これがおもしろいと感じたのは甚だ個人的な理由によるものです。文章は、内蒙古自治区オルドス市(かつては伊克昭盟と呼ばれていましたが、盟から市へと格上げされたのをきっかけに「オルドス市」に改称されました)のオトク前旗(颚托克前旗)におけるカソリック信仰をめぐるエスノグラフィーによる論文です。わたしがいたエジンホロ旗(伊金霍洛旗)はこのオトク前旗の東南で接しており、一度車で旗政府所在地の小さな町まで行ったことがあります。エジンホロ旗に比べてもまだ小さな、「鄙びた」という形容が思わず浮かばずにはいられないような荒涼としたところでした。
伊克昭盟でのキリスト教伝道の歴史について、この文章では20世紀前半に主にベルギー人を中心とする宣教師が布教活動を行っていたと紹介しています。ベルギー人宣教師モスタールトの『オルドス口碑集』が日本語に訳されて東洋文庫に入っています。モスタールトは1920年代にエジンホロ旗の南にある烏審旗で伝教活動を行っていた人で、わたしはずっと、この地域にいたほとんど唯一に近い外国人ではないかと勝手に疑っていたのでした。
さて、論文の作者は執筆の動機についてこう述べています。ちょっと長いですが引用します。

江南に来て仕事をするようになってからかなり長い間、次のようなことを尋ねてくる学生いつもがいた。「先生、先生のご実家はモンゴルだそうですけど、学校に行くには馬に乗っていくんですか。」最初はわたしも我慢してこう答えていた。「わたしの家は内モンゴルです。モンゴルは別の国ですよ。」しかし、このような答えは学生の好奇心をあまり満たしてはいないようだった。その後同じような質問に遭うたびに、わたしはまじめに答えることをやめて、逆に冗談を言うようになった。「わたしたちは町では馬に乗って学校に行くだけじゃなくて、仕事だって馬に乗っていくんだよ。」そして、このような冗談がかえって彼らを満足させられることに気がついたのだった。
こうした、異民族に対する原始的なロマンティックな描写や想像は、西洋のアカデミズムではとっくに批判が提出されている。彼らは、こうした想像は植民主義の影響と関連していると考えている。指摘しなければならないのは、このような描写や想像が国外では批判されているといえども、多くの人にとって、こうした想像があいもかわらず異文化を理解する主な回路になっているということだ。
中国のアカデミズムにおける少数民族に関する研究や記述にも同じような問題が存在している。文学、映像、芸術、メディアの報道などにおいて、中国の少数民族はほとんどの場合、奇妙で色鮮やかな民族の伝統的ファッションを身につけ、歌い踊り、手には杯を掲げて、来客を迎える……といった具合だ。明らかに、マジョリティの想像をかき立てるのは、少数民族の原始性や自然さ、そして文化的差異がもたらすロマンや好奇心といったものであり、モンゴル族や草原文化に対するわたしの学生の想像も、やはりこうした心理に基づいている。しかし、現実と想像の間の差異は常に埋められなければならない。それが本稿を書いた目的だ。

そう、当たり前のことですが、内モンゴルの「草原文化」に限らず、あらゆるコミュニティはその大小にかかわらず、多様で複雑、かつ多元的な現実から成り立っているに違いないのですが、それを外部から見る場合に、ステレオタイプやオリエンタリズムに代表されるようなエキゾチックな表象に対する想像から自由になることが難しいのは、作者の学生に限ったことではないでしょう。
論文は、現体制下における宗教政策、人口政策などと、この地方におけるカソリック信仰生活との間に存在し続ける敏感な緊張関係について、冷静な分析をしています。論文の指摘を待つまでもなく、政治権力と宗教権力との相剋の中で、いかにして政治の介入から信仰生活の総体性を守っていくかという問題が彼らの生活には存在しています。この辺のことは、自らもキリスト教徒であるという、慶応の田島英一氏が『中国人、会って話せばただの人』(PHP新書、2006年)の中でも書いていますので省略します。オトク前旗でも当然この問題はあって、信者たちが政府対策としてあの手この手を考えていること、そして現地政府も原則をくずさない程度に「目をつぶって(睁一只眼闭一只眼)」いるという例を紹介しています。
問題は問題として存在しているのだとしたら、それにどのように向き合っていくのか、そこに重要な政治的生活の意義がかかっているのであり、そこへの視座が獲得できるかどうかは、マクロな視点や外在的な視点によってはアプローチが困難な現象に対する理解と想像の力、そしてミクロに入り込む生活感受性に負うのではないかと思います。ましてや、外部的視座が「植民主義」的な影響から自由にはなれないのだとしたらなおのことです。その意味で、エスノグラフィーの方法は有効であろうというのは、この論文が示すとおりでしょう。

Wednesday, February 11, 2009

佐藤慎一教授最终讲义

讲义题目:歴史の変革と歴史学の変革-中国史解釈をめぐる民国期の論争について(历史的变革与史学的变革-关于民国时期有关诠释中国史的论争)
时间:2009年2月20日(五)15:00
地点:东京大学文学部一号大教室

Tuesday, February 10, 2009

”多民族交叉论”(2009年度夏学期教学大纲)

大学院综合文化研究科2009年度夏学期所开设的“多民族交叉论”课程的大纲如下,上课时间拟定为周四第2节,欢迎选修。

講義題目多民族交錯論Ⅰ
授業の目標・概要「理」と「公理」という概念をめぐる批判的思考を吟味しながら、中国語による思想言説における「近代」の意味を問うための視座を得る。
授業のキーワード中国、近代、思想史、哲学
授業計画主に汪晖《现代中国思想的兴起》第3巻を中心に現代のテクストを読解しながら、中国における思想の「近代性」をめぐる批判的言説を吟味する。
授業の方法担当者による報告とそれをめぐるディスカッションによって進める。詳細は授業内で指示する。
教科書汪晖《现代中国思想的兴起》重印本(三联书店,2008年)など。詳細は授業内で指示する。
参考書授業内で指示する。