Saturday, December 13, 2008

后《读书》时代的中国知识圈

「ポスト『読書』時代」という言い方自体が、ここで言いたいことのポイントから少しずれているかもしれません。いわゆる知識人(知识分子)という自称・他称が居心地の悪い、気恥ずかしさを伴う響きを持つようになったのは「ポスト『読書』時代」の現象ではなく、むしろ、『読書』の編集リーダーが交代に追い込まれたのは、その結果であったとも言いうるからです。
1990年代の学術史ブームは80年代の知的エリートの高ぶった啓蒙言説への反省から始まったと言われています。『学人』という刊行物が牽引者としていわゆる「学術規範」を模索的に提示しながら、学術史叙述を試みたのでした。1990年代を通じて、大学におけるディシプリンの分化と専門化が進んだ結果、『学人』は2000年に停刊となりますが、おそらくそのころまでにその役割がすでに終わっていたということなのでしょう。大学内の学術研究の分化・専門化傾向は、「学術規範」のある意味における成熟ということを示していたわけですが、その副産物として次第に顕著になっていったのが学科言説相互の通約不可能性の問題です。そのような中で『読書』は、人文学・社会科学の各分野で活躍する研究者や、小説家・文芸評論家といった文学者たちが、それぞれの知的背景に基づきながら、非専門的な意見を発表する場として、知的論壇を形成していたと言えるでしょう。その意味では、『読書』は知識人たちのアマチュア精神発揮の場として、そのユニークな存在感を維持し続けていたのです。しかし、大学内の業績評定の規格化の流れの中で、『読書』は書き手たちの高度な専門的バックグラウンドと知名度にもかかわらず、学術論文としては承認されず、功利的な閲覧ニーズに応えるべくもないことは、すでにずいぶん前から明らかなことでした。
さらには、このようなアマチュアリズムの発揚の場として、インターネットが大きな力を持つようになったことも重要なポイントです。左派文芸批評の「左岸会館」、リベラリズム論壇の「学術中国」、新左翼系の「乌有之乡」、国学の「国学ネット」、その他、大学人たちが開設しているブログなどが、より自由で活発な議論のプラットフォームとして機能を果たすようになりました。多くの雑誌論文がこれらを通じて次々と転載され、ほとんどの文章がネット上で閲覧できるようになりました。それ以上に特徴的なことには、速度を強みとするネット論文(学術論文の体裁を持ってはいるが、紙媒体には載らないものをここでは指しています)が、インターネット空間を席巻しています。おおむねこのような論文は、書き手にとっても読み手にとっても、アクセスのしやすさが共通の特徴で、短めでわかりやすいものが多く、汪暉・黄平の『読書』が難読であるとの批判を多く受けた背景にも、こうした「スピードの時代」におけるわかりやすさ信仰が作用しているのではないかと思われます。
『読書』の編集トップ交代からすでに1年以上が経過し、新生『読書』はまだ迷走を続けているように見受けられます。かといって、定期刊行物の中から、かつての『読書』のような良質のアマチュアリズムが凝縮されたものがあるのかといえば、私にはよくわかりません。
一方で、知識の細分化・専門化、すなわち秩序化・制度化のもとで、果たして対象が確かなものとして認識できるのだろうか、という自己省察が不断に行われているのも見のがすことはできないでしょう。そのひとつの表れが『開放時代』第6期の巻頭シンポジウム《中国乡村研究三十年》です。農村社会研究に従事する識者たちが最も問題を集中させたのが、如何にして中国を認識するのか、というテーマでした。この視点は、同じ号に掲載されているそのほかの現代史関連の論文にも共通しているものと思われます。シンポジウムの中では、農村研究の基本的な視座として、マルクス主義と毛沢東思想を掲げる声がありました。これは、単に制度的知識の教条を繰り返しているものではないとわたしは思います。毛沢東は対象への知的アプローチにおける実践性と理論性の弁証的関係について、素朴なことばを用いて重要な問題提起を行っていました。そして、その問題提起が相変わらず、というよりもむしろ、このような時代においてこそ益々重要な意味を担っていることを、いみじくも指摘していると理解すべきものだと思うのです。