Friday, September 26, 2008

以共生为目标的中国哲学(研讨会)

以“以共生为目标的中国哲学:与台湾学者的对话”为题,7月21日举办的研讨会纪录在UTCP(东京大学国际哲学教研中心)网站可以看到。请点击此处

「共生のための中国哲学:台湾研究者との対話」というタイトルで7月21日に開かれたシンポジウムの記録がUTCPのサイトで見られるようです。ここをクリックしてください

Tuesday, September 23, 2008

面对“五一二”

オリンピックを経て日本ではすっかり忘れられてしまった感がありますが、「5・12」とは、四川省汶川で未曾有の大地震があった日のことです。例えば「范跑跑」をめぐる賛否あい乱れる議論の応酬のように、メディア上、ネット上では地震という自然現象の社会的・文化的意義に関して、さまざまな意見が表明されています。ちなみに「范跑跑」というのは、生徒たちを置き去りにして真っ先に教室から逃げ出していったと自ら公言した中学教師に対する揶揄を込めたあだ名です。日本でも紹介されていました。しかし、この教師を非難する言論だけが集中したわけではなく、それを弁護する声がたくさんあったことが、むしろ今回の特徴であるかもしれません。これは中国社会におけるモラルハザードの問題ではなく、英雄主義的表象のメディア作用をめぐって本音の議論を提供しているという点で注目すべき問題なのです。
さて、『読書』2008年第8期は、《笔谈:面对“五一二”》と題して、4篇の長短異なる文章を掲載しています。「筆談」という題目が示すとおり、これらは問題を十分吟味し整理したうえでまとめられた完成度の高い文章というよりも、速度を大切にしたものです。これは以前の『読書』にはなかった傾向です。汪暉・黄平時代の『読書』は時事問題から距離を置くことを主眼にしていましたので。
4篇はそれぞれ、杨早《媒体报道与公众心理》、杨子彦《从“人定胜天”到“众志成城”》、吴真《宗教仪式与灾后心理治疗》、周瓒《大地震与文学表达》です。周文はネット上にありましたので、リンクを貼り付けておきます。このうち、文章としての完成度が高いのは楊早氏のものです。今回の地震報道は情報の公開性に大きな特徴があったというのは日本でも知られているとおりですが、楊氏は新中国始まって以来とも言える「自由な報道環境」ゆえに様々な問題が生じたことを分析しています。それは主に「災害取材や心理ケアの訓練を受けず、物資の準備も不足していた記者が被災地に入ることによって、被災地の負担を大きくしたこと、記者の一部に見られた軽率で粗雑なやり方が被災民に「二次傷害」を与えたこと」に代表されるといいます。楊子彦氏の文章が示しているように、中国の災害報道の主旋律が「団結の力」を鼓舞することにあるというのは、報道の自由化のもとでも「規定の動作」でした。楊早氏は、主要メディアの果たすべき機能として、①伝達、②安撫、③批判の三点を挙げ、前二者に比べて③が弱かったと分析しています。

彼らは大量の画面や写真によって被災前の美しい山間都市の姿を回憶し、生存者の涙や嗚咽を撮影し、次々に登場する感動的な出来事を賛美したがっていた。その一方で、なぜ学校がほかの建物よりも崩壊がひどかったのか、被災地では強盗や管理の不適切といった状況が生じなかったのか、被災地での物資分配にはどのような困難が生じたか、ボランティアの無秩序な活動はどんな悪影響をもたらしたのか、被災地の底辺自治体はどのように運営されていたのか、といったことを自らの有利な立場やメディア資源を使って市民に問いかけようとはしたがらなかった。(中略)もちろんすべての市民がこのような事実について問いただしたいと思っているわけではない。災害の巨大さ、死傷者の惨状、感動的な救援などは全国の市民の心に大きな憐れみと無力感を喚んだ。多くの人はこうした中で、理性を失ってでも、すべてを被災地と被災民への関心に向けた。(中略)市民が災害の前で見せたある種の熱狂は、実は彼らの内心にあった大きな憐れみと無力感の発露であった。こうした発露は募金活動や被災地再建への参加によって、またはネイション・ステイトへのアイデンティティや集団への帰属感へと転化することによって完成するだろう。その点ではメディアの報道は市民たちがこのような転化を完成するのをうまく手助けした。しかし、もう一方では、多くの市民たちは心の中で、社会全体が災害の中で一致した道徳規準を持つことを求め、市民の強い思いは正常な社会秩序に対してある種の損害をもたらしさえもしたのだった。

呉真氏の文章は、被災地での「心のケア」の問題について、仏教や道教といった民間に根ざした宗教によって対応できるのではないかという提案を、台湾や香港での類似の事例と比較しながら試みたものです。
被災文学の登場については日本の新聞でも取り上げられていましたが、むしろ、文学表現の無力さと失語状態の前で逡巡する職業作家たちの声なき声のほうにこそ着目すべきであるかもしれません。そういう意味で周文は興味深いものです。

わたしが読んだものの多くは地震について書かれた詩歌であり、そのどれもが呻吟の類に属している。さまざまな詩のサイトは、地震のために詩を書くこと、犠牲者に哀悼を示し、生存者に愛情を示すこと、生き残った人々の驚愕や悲痛さを高らかに表現することなど、色々と呼びかけている。それらが呻吟の作であるということは必ずしも作品の価値をおとしめるためばかりではなく、ただ、それらの役割は慰めにしか過ぎないということを言いたいのだ。(中略)今この時に、もし沈黙でなく、まだ何かを表現したいという場合に、傷痕スタイルの文学表現をとるしかないのか、という問題は、もの書きを多かれ少なかれ試すものである。ネット上の少数の佳作は、地震の悲惨さが生存者たちにもたらした衝撃についてかたり、現実の複雑さの全体像や文学表現そのものの問題に触れている。現実の複雑さを表現すること、それは詩歌の題材が災難が人にもたらした衝撃や死者への哀悼、祈りであるのみならず、地震によって引き起こされた一連の社会問題について書くことをも含んでいるということを意味する。したがって、詩はただ抒情的なものであるだけではなく、深い省察や責任、表現そのものに対する反省でもあるのだ。(中略)したがって、わたしは南方のメディアが言うところの「地震が詩歌ブームを巻き起こしている」といった論評に与するものではない。

『天涯』は最近2期にわたって、地震をめぐって、冷めた語り口によるルポルタージュ調のノンフィクション作品を複数掲載していますが、それらもこうした見方に共通するものと思われます。いったい巨大な災厄の中で文学はなにができるのか、なにをすべきなのかという問いを自ら問いながらその答えを実践の中で探していこうという姿勢がこれらの中には一貫しています。

Thursday, September 18, 2008

冬学期・多民族交錯論Ⅰ

本课程冬学期根据已公布的教学大纲将研读康有为《实理公法全书》以及王国维《释理》等文章。晚清时期知识话语积极吸收来自西方的诸多观念和思想。我们要通过分析其中对“理”观念的独特运用和新阐释,对传统话语内涵变化和延续相交的复杂演变过程加深了解。我们带着这种问题意识来一起研读相关文章,以期提高同学们的阅读翻译能力。
具体事宜将于第一堂课进行详细介绍,欢迎研究近现代中国文史哲的同学们踊跃参加。教学大纲(冬学期部分)贴在下面,供参考。

冬学期は、清代以降の文言文に対する読解訓練を行なう。他者の言語文化との交錯という政治的現象が固有の知的ディスコースをどのように揺さぶっていったのかを分析する手がかりになるような、比較的短い文章を適宜選ぶ。参加者はそれを正しい現代中国語の発音で音読するとともに担当箇所の全文を日本語に翻訳することが求められる。また、議論参加の積極性が求められるのは夏学期と同様。教材は授業中に指定する。

Tuesday, September 16, 2008

中国哲学研究第23号目录

东京大学东亚思想文化研究(前中国哲学)专业博士生所办学术刊物《中国哲学研究》第23号现已刊行,欢迎选购。其目录为:
新田元規「君主継承の礼学的説明」
田中有紀「北宋雅楽における八音の思想-北宋楽器論と陳暘『楽書』、大晟楽」
倉本尚徳「南北朝時代における『大通方広経』の成立と受容-同経石刻仏名の新発見」

《中国哲学研究》网站请点击此处