Sunday, July 20, 2008

李昌平“我向日本朋友说实话”

《我向总理说实话》以来、三農問題の代表的論客として内外に名を知らしめた李昌平氏の講演があったので、聞いてきました。李氏は郷鎮レヴェルの党指導者として湖北省の農村行政の第一線に立ち続けてきたということで、農民の代表という風に取り上げられることが多いのですが、実際には大学(大専?)の学歴を持って農村に赴任し、その後学士、修士の学位を取得しています。したがって、在野エリート、もしくは「草の根」エリートといったほうがふさわしいでしょう。李氏のブログを見つけましたのでリンクしておきます。
李昌平的博客
さて、講演の骨子は次のようにまとめられるでしょう。
1 1980年代の農村経営は比較的成功していた。その原因は大きく二つ:第一に、生産責任制のもとで農民の積極性が解放された。第二に、郷鎮企業の発展により、農村/都市間を有機的に連結する市場が自発的に形成された。
2 1980年代末から始まった農村経営に対する中央の政策変化が1990年代に「三農」の深刻な疲弊をもたらした。それは、郷鎮企業に対する租税徴収の強化、さまざまな税や負担金の増加、グローバル経済への対応、などの側面に起因している。
3 2000年代に入って、三農問題対策が国家的課題となり、1990年代までの問題には緩和の傾向が現れたが、新たな問題が生じている。それは、国際的な原油価格・食糧価格の急上昇、ドル高元安といった情勢の中で、国内食糧価格が政策的に抑制されていることだ。
4 三農問題に対する抜本的な解決案として、農民(農村戸籍)を持つ人々に適正な「国民的待遇」を賦与すること、食糧価格を引き上げることによって農民の収入状況を改善することが必要。
5 グローバル経済は米ドルベースのアメリカ一極主義であり、アジア域内経済関係を強化することによってその衝撃を緩和しなければならない。
6 実はある意味で中国の政治体制改革は、経済体制改革よりももっと徹底している。今日の人民代表は資本家が中心となり、かつての主役だった労働者・農民はほとんどいなくなってしまった。


さて、これらの主張は基本的にはどれも肯けるものばかりです。とくに、1950年代以降の、工業建設中心に経済建設を進めるという「近代化」基本政策の習慣思考が今日もなお強固な支配力を持っているという指摘(はさみ状価格差“剪刀差”)は、中国的モダニティに対する評価としても重要でしょう。
しかし、今回の講演のメッセージとしていちばん重要なのは、中国の三農問題を国内問題ではなく、グローバル市場のもとでの資本主義の問題として再整理しようとしていることです。グローバル市場の中で輸出依存型経済発展を強いられている今日的状況の下では、労働力価格の不当な抑制の代価の上で、商品輸入国が最大の受益者となっている。この構造は中国の近代化路線と同様のものだ。しかし、三農問題のこれほどまでの深刻化が示しているように、中国ではこの路線はすでに破綻している。したがって、今日のグローバル化の末路はすでに見えているのだ、と李氏は主張するのです。

Tuesday, July 15, 2008

西藏·全球化·资本主义

『現代思想』7月臨時増刊「総特集:チベット騒乱」には、「三・一四事件」と呼ばれるチベットでの暴動を冷静に分析する文章が数多く掲載されています。巻頭に寄せられたパンカジ・ミシュラ「モダニティというユートピアとの戦争」(福田将之訳)は次のような問いかけから始まっています。

ラサで反乱を起こしたひとびとが中国政府ではなく、漢民族系の移入者に襲いかかったということは、どうでもいいことなのだろうか。中国当局はどちらかといえばそれまで抑制的な姿勢をとってきていたということは、度外視してもいいのだろうか。中国の中産階層のチベット人少数民族に対する反感は、わたしが先週中国にはいったときにも感じたように非常に大きなものとなっているが、その陰で、中国政府の反応は慎重なものだという点は、考慮しなくてもいいのだろうか。

わたし自身、このたびの騒動はテレビや新聞で報じられているのとはまったく異なった背景のもとで分析されるべきだと考えていますので、彼らの文章には肯ける点が多々含まれています。ミシュラ氏は言います。

中国にとっては、自分が消費資本主義とファウストのような契約を結んで魂を売ってしまったために、根っこを失うことになった数億の不運な中国人のほうが、チベット人たちよりも政治的には重要であった。

漢民族の移入者を襲うチベット人、というテレビで放映される映像は、中国沿岸部の富裕な都市に住む中産階層のナショナリズムに火をつけた。「恩知らず」のチベットに対する強硬な弾圧を支持している裕福な中国人の姿は、デリーやムンバイで、警察に向かって、立ち退きに抵抗するひとびとを「叩きつぶせ」とけしかける中産階級のテレビコメンテーターとよく似ている。この声からも明らかなように、今日ほどに市場原理によるグローバリゼーションが、富裕で教育程度の高い受益者に、貪欲で獰猛な文化を教え込むことに成功している時代もないのである。

このたびの問題を冷戦時代のイデオロギー対立構図の延長と見ることは、とりもなおさず、ポスト冷戦時代のグローバル資本主義と脱政治化の趨勢を側面から支援・強化するものではないでしょうか。ラカン主義のカルチュラル・スタディーズ批評家ジジェクが次のような警句を発しているとおりです。

おそらく、われわれが中国の活仏転生についての法案をかくも突飛に感じるのは、彼らがわれわれの感受性に対する異物であるからではない。そうではなく、われわれが長いあいだ行ってきたことの秘密を、彼らが吐き出しているからだ。自分があまり真剣に受け取らないものには敬意を払って寛容に接し、その政治的諸帰結に関しては、法を持って抑えつけようとするという秘密を。(「中国はいかにして宗教を獲得したか」、松本潤一郎訳)

敢えて言うならば、これらの論者たちは相変わらず漢-チベットの二元論的構図から解放されていません。それでは問題は彼らの意図を離れて、ほかの言説に絡め取られる恐れがあります。そして、そこにはデモクラシーの名を借りたポピュリズムも潜んでいることでしょう。マルクス主義を標榜する政党が国家を支配しているということは、単なる看板の掛け替え忘れなのではなく、多民族共存原則のような価値理想を自らの正統性言説の中から引き出し得る可能性をたとえわずかでもつなぎ止めているという点は無視できないものと思われます。

Friday, July 4, 2008

期末办公时间

7月授業終了後のオフィスアワーを以下のように設定しました。来訪される前に電子メイルでご一報くださればなお確実です。
7月11日(金) 14:40~16:10
7月17日(木) 10:40~12:10
7月18日(金) 10:40~12:10
7月24日(木) 10:40~12:10
7月25日(金) 10:40~12:10

《启蒙的自我瓦解》

大学院の授業で一学期間講読してきた许纪霖/罗岗等著《启蒙的自我瓦解:1990年代以来中国思想文化界重大论争研究》(吉林出版集团有限责任公司,2007年)は、1990年代の中国知識界で争われてきた諸問題を論争史という枠組みで俯瞰しようとした力作です。「知識界」という言い方は日本語として馴染まないものであるかもしれません。この本のテーマ(啓蒙の自己崩壊)自体、編著者たちの「知識人」たる自負がいかに強いものであるかを示しているとも言えるものです。おそらく、これは中国の知的土壌のなかで、士大夫意識がいまだに作用し続けているということを示しているのでしょう。
この本の最も優れた点は、巻末附録として、詳細な文献リストを載せているところです。これらを追っていけば、1990年代の中国で自他共に知識人と見なされている人々がどのような発言をしてきたのかがほぼ全体的に把握できそうで、たいへん貴重な同時代史資料集になっています。幸い、中国語のネット空間では学術資料のデータベース化がたいへん進んでおり、ことにこの本が言及する論文はここ20年来の新しいものばかりですので、簡単に入手できます。卒論や修論で今日の中国における思想状況をテーマにする場合には、恰好の手引き書になるはずです。
もちろん、いわゆる「新左派対新自由主義」に最も端的に代表されるように、論争の複雑な多元性を無理矢理二元論に還元してしまうこと自体の暴力性や政治性、そしてその結果もたらされるであろう議論自体の不毛化のおそれをこの書物が完全に逃れているとは言えません。しかし、議論の明確化のために、いったんこの使い古された(政治的な)図式を受け入れつつ、内部の複雑さと多様さを、論争の内包する豊かさと可能性の方向において論じきろうとする姿勢が顕著に見えている点は評価すべきだと思われます。