Friday, December 7, 2007

柏林与中国的自由主义

UTCPのブログで王前氏のエッセイが紹介されていました。バーリンを中心に英米リベラリズム政治思想史を研究している王前氏が1980年代以降の中国における政治思想研究の動向について紹介したものです(「ベンヤミン、丸山、バーリン、そして中国思想界近況一瞥」)。バーリンといえば、わたしが知っているのは自由の概念を積極的自由と消極的自由に分けたこと、ハリネズミと狐のたとえぐらいのものです。後者は日本語でも岩波文庫に入っているようですね(『ハリネズミと狐』)。王前氏の紹介を読んで改めて再確認されたのは、バーリンがロシア出身のユダヤ人であったということと彼のその後の政治理論との間の関係についてです。中国でのバーリンに対する受容のされ方にもこのあたりの背景が直接間接に作用しているのでしょう。
それにしても、中国では欧米政治思想がかなり幅広い関心を呼び続けているにもかかわらず、なかなかその様子は日本語で伝えられてきませんので、このようなお仕事はたいへん貴重なものだと思います。今後の王前氏の活躍に期待。

Monday, December 3, 2007

华人作家荣获日本文学新人奖

留日中国人杨逸最近获得了一项日本文学新人奖。这无疑是一件快事!八十年代以后陆续从中国大陆东渡此地的许许多多中国人如今在各行各业中扮演着举足轻重的角色。他们在日本奋斗了很多年,有的子女已经到了读大学的年龄,我在大学所教的学生中间也有不少的同学其父母亲来自中国各地。
我在报纸上读到这个消息之后,马上购买了当期的《文学界》杂志,即该奖项的主办刊物。各位评委对获奖作品发表了各自的评语。基本上都对该作品给予了充分的认可。但也有一些意见,比如有几个评委提及了“现代小说”的概念,并说该作品未能摆脱“现代”的框架。我不是搞文学的,但作为一个普通的文学读者,这个说法颇让人费解。他们似乎没有以具有说服力的语言解释为什么当今的文学创作一定要摆脱“现代”。对一个人的生存来说,他所处的境遇和他所要表达的现实无关乎现代后现代。对一个读者来说,更无所谓现代不现代,好比我们都很喜欢阅读古典小说。创作手法上的时代性好像构不成作品的优劣。更何况,杨逸该作品的生命力乃是其记实文学一般的非常写实的生存写照。她所描写的人物和他们的生活都代表着现实上存在的群体生存,他们的生活给作品赋与了震撼力。她要描述此种世界,必须要采取所谓的“现代”方法。所以,问题根本不是该不该“后现代”,而我们通过阅读该作品可以了解到围绕我们的现实生存并没有走出“现代”,我们更需要关注这些。日本社会族裔结构的多样化本是可庆可贺的现象,但这并不等于支配日本社会的思维习惯已经步入了“后现代”,而无数个“现代”在其表象下挣扎着生活。这里面有无数个痛苦,也有同它一样多的希望和骄傲。
希望杨逸女士今后继续在日本的文坛上发表很多对人的生命富有关爱的作品。

日本在住の中国人作家楊逸氏が文学新人賞を受賞しました。これは間違いなく素晴らしいことと言えるでしょう。80年代以降中国大陸から日本へやって来た数多くの中国人たちはすでにさまざまな分野で重要な役割を担っています。彼らは日本での長期間の努力を経て、中には子女が大学へ通う年齢になっている人もいます。わたしが大学で教えている学生の中にも両親が中国の各地からやって来たという人がかなりいます。
新聞でこのニュースを知って、わたしはすぐに今回の賞を主催する『文学界』を買ってきました。各審査委員の講評は、おおむねこの作品を十分に評価したものでしたが、その中には、「近代小説」という概念に言及しつつ、この作品が「近代」のフレームワークから抜け出ていないと指摘しているものがありました。わたしは文学専門ではありませんが、一介の読者という立場からすると、これはわかりにくいものです。彼らは、なぜ現代の文学的創作が「近代」性を抜け出すべきなのかということについて、説得力のあることばで説明していないように見えます。ある人の生きざまという点からすると、その人の境遇やその人が表現しようとしている現実が近代的であるかどうかということは無関係です。読者にしてみればなおのことで、わたしたちは古典小説を好んで読んでいます。創作方法の時代性は作品の優劣に結びつかないのではないでしょうか。さらに言えば、楊逸氏の作品の生命力はドキュメンタリーのような極めて写実的なものがたりです。彼女が描いた人物たちとその生きざまはどれも現実に存在している人々の生きざまそのものであり、それが彼女の作品に魅力を与えているのです。彼女がこうした世界を描こうとするなら、「近代」的な手法を使うしかないでしょう。したがって、問題はポスト近代的か否かということではなく、この作品の読解を通じて、わたしたちを取りまく現実がまだ決して「近代」を脱したわけではないということを知ること、そしてそこに関心を持つということではないでしょうか。日本社会内部のエスニシティの多様化はもとよりよろこばしい現実ではありますが、このことは、日本社会で支配的になっている習慣的な思考のあり方が「ポストモダン」に入ったということを意味しているわけではありません。むしろ、数知れぬほどの「近代」がそうした表象の影でもがきながら生きているのです。それらには数知れぬほどの苦しみがあり、それと同じくらいの数の希望とプライドがあるのではないでしょうか。
楊逸氏が今後も日本の文壇で生命に対する愛情のこもった作品を数多く発表されることを期待したいと思います。