Monday, July 30, 2007

野火烧不尽,春风吹又生

銭理群氏の最近の発言を一部紹介しましょう。前回の孔慶東氏の発言はこれを受けてものです。

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こういう「事件」が起こるたびに、わたしたちは決まってある種の無力感を感じるわけですが、では希望はどこにあるのでしょうか?わたしはともかく「楽観主義」を三点申し上げたい。第一に中国は人口が多いということ。つまり、ますます多くの知識人が体制に組み込まれて、思想の自由や独立した批判的立場を守り続ける知識人(「自由主義」であるか「新左派」であるかを問わず、そういう知識人がいると信じています)が孤独感を感じている。彼らは比率からいえばたしかに非常に少ないのですが、絶対数からいうと必ずしも少なくはない。だからわたしたちは連帯しあい、助け合い、何らかの力を形成していけるのではないでしょうか。二つめに、中国は幅員が大きいということ。毛沢東がかつて言ったように、「東はくらくても西は明るい」というわけです。少しずつ包囲されていったとしてもなお挽回の余地が常にある。わたしたちは文章を発表する場所をいつも見つけることができるでしょう。独立、自由の声は抑えつけられません。第三に、わたしたちの長きにわたる文化伝統です。その中には批判的知識人の伝統も含まれていますが。このような伝統の力は軽視できないものです。それは一代一代、継承者を育んでいくでしょう。つまり、「野火焼きて尽きず、春風吹きて又生ず」というわけです。この三点を思ったとき、そこに「ささやかな希望」を見いだせるような感じが致します。

Thursday, July 26, 2007

文本和其背后

近現代文学研究で知られる北京大学の若手研究者孔慶東氏の発言です。ひとつの態度として、素朴なことばの中に考えさせる内容を含んでいると思うのですが、如何でしょう。

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いちばん大事なのは、銭理群先生がおっしゃった人口問題でしょう。ここで人口問題というのは、わたしの考えではつまり人民の問題です。つまり、人民に欲望がまだあるかどうか、わたしたちの語りが最終的に人民に根ざして欲しいという欲望があるかどうかということです。人民の欲望とはなにか。わたしは帰国してきて、バスに乗ってきました。来るときのバスの中では、北京の空一面のほこりや交通渋滞、車内の人々のぶつくさ言う様子を見てきました。中国のことを理解しようというときに、『読書』を読む必要があるでしょうか?だとしたら、わたしはずいぶん惨めなものです。『読書』は大変重要な雑誌ではありますが、中国を理解するには『読書』を読むのではなく、中国にやってきて、きままに出稼ぎ労働者たちと一緒にうどんを一杯食べればいい。わたしは、一日中わけのわからない人といっしょにいて、他の人がわたしのことを北京大学の教員らしくないということを聞いて光栄に思うのです。わたしはこういうやり方で中国を理解してきました。わたしはいろいろな中国人がどうやって暮らしているのかを知っています。北京大学の教員がどうやって生活しているのか、博士修了者がひと月たった二千元の給料でどうやって教員として暮らしているのか、わたしは、さまざまな人の暮らしぶりを知って、そうして、比較の結果ひとつの基準を導く。そうすると、どの雑誌が真理を述べているのか、どの本、どの文章が本物なのか、どの文章が太平の世を装っているのかがわかるのです。

Wednesday, July 25, 2007

中国的1960年代

中国語で「19××年代」と発音することに奇妙な違和感をいまだに覚えるのですが、21世紀も7年目に入り、この言い方もどうやらすっかり市民権を得ているようです。

さて、『読書』2007年7月号の編集後記を以下に抄訳します。

20世紀初期、共通の歴史的境遇(列強圧迫下の「東亜の病夫」と「近東の病夫」という)のおかげで、中国とトルコの革命家たちは、「運命を同じくする」かのような感覚を抱いていた。だが時は移り変わり、50年はじめには、両国の若い軍人同士が、トルコからはるか遠くの朝鮮で干戈を交えることになる。「国連軍」に加わった数千人のトルコ人兵士が極東の戦争で命を落としたとき、たくさんの若いトルコ人たちは問いつめるようになった:「なぜ我が国の若い軍人がはるか遠くに行って無駄死にしなければならないのか?」朝鮮戦争は若い世代の心に種子を落とし、彼らがその「60年代」を迎えるころになると、再びその眼差しを中国に向けるようになった。中国と中国革命、そして中国革命の中から生まれた思想や価値が多くのトルコ人青年を引きつけたのだ。中国と中国の革命を理解するために、彼らは中国語を学び始める。その一人がダーリック(Arif Dirlik)だった。彼はトルコを離れ、中国研究をライフワークにするようになった。より正確には、彼は中国革命研究をライフワークにしたというべきかもしれない。ポスト革命時代の中国研究の中で、彼の中国革命に対する執着ぶりは、確かに数少ないものだ。ダーリックの現代史研究に対する評論は、ひとつひとつをとれば、精密さを欠いているかもしれない。そして、そうであるが故にそれは論争的だ。しかし、時代思潮の変化やそのアカデミズムにおけるあらわれに対する彼の分析は、往々にして勘所をとらえている。
(中略)ダーリックの中国革命に対する関心もきっと、自らの社会と時代の雰囲気に対する彼の理解に根ざしているに違いない。彼の主な仕事はほとんどいずれも中国革命に関係している。初期の代表作『革命と歴史:中国的マルクス主義歴史学の起源』は、30年代初期の「中国社会史論争」に対する洞察に富んだ研究だ。『中国共産主義の起源』『中国革命におけるアナキズム』『革命の後に:グローバル資本主義に対する警鐘』など、書名を見るだけで、20世紀革命の「におい」が伝わってくる。わたしがダーリックの当時を知る人物に出会ったのは、あの(イスタンブールへの)旅行のときであった。彼女はダーリックが兵役を拒否するためにトルコを去ったのだと語ってくれた。
それは、「トルコの60年代」の物語だ。中国と関連しつつ、しかも中国とは状況がまったく異なった時代状況の中での物語だ。

Arif Dirlik氏のことは、日本ではまだあまり知られていないようです。わたしも名前しか知りません。今月号は、巻頭に、その《全球化、现代性与中国》(「グローバル化、モダニティ、そして中国」)を掲載しています。

Monday, July 23, 2007

外国事情(アジア事情)前期期末レポート課題

次のいずれかの課題を提出すること。

  1. 堀田善衞『インドで考えたこと』(岩波新書、1957年)を読んだ上で、授業で学んだことも思い出しながら、「アジアと向き合うこと」という題で、2000字以上のレポートを作成しなさい。
  2. 陳凱歌『私の紅衛兵時代』(講談社現代新書、1990年)を読んだ上で、授業で学んだことも思い出しながら、「時代のなかの個人」という題で、2000字以上のレポートを作成しなさい。

いずれも締め切りは、9月17日(月)12:30厳守。遅れたものは受け取らない。
提出先は、石井研究室(27-514)のポスト
課題は学内掲示でも確認できる。

Monday, July 16, 2007

鲁迅、东欧、拉美,以及日本

『中国研究月報』2007年3月号は特集記事として「いま魯迅をどう語るか」を掲げていますが、その中に、Dennitza Gabrakova氏の「除草できない希望-魯迅の『野草』」という論文があります。巻頭の代田智明先生による紹介によれば、作者はブルガリアからの留学生とのことです。魯迅『野草』をブルガリア語に初めて翻訳した人なのだとか。
東欧と中国近代の思想文化を結ぶ線について、おそらく文学研究の場では常識になっているに違いありません。研究の動向にうとい私でさえ、ミラン・クンデラが大量に翻訳されて、あちこちの書店で平積みになっていることを知っています。たぶん東欧への関心は、歴史的に蓄積されているものなのでしょうが、その歴史は社会主義中国の歴史とともに始まったのではなく、20世紀初頭のころ、つまり、魯迅がバイロン(彼はイギリス人ですが)を語り、ハンガリーの革命詩人ペテーフィの名を挙げていたころにまで遡るのでしょう(『摩羅詩力説』)。考えてみれば、80年代にはガルシア・マルケスや、オクタヴィオ・パス、ひいてはボルヘスのような、ラテンアメリカ作家たちの作品群が中国に大量に紹介されていました。莫言の小説や、李少紅の映画(『血祭りの朝』《血色清晨》)などは、ガルシア・マルケスの影響を強くにじませる代表だと見なされています。
東欧やラテン・アメリカといった、地域の思想文化は、東アジアと西欧を中心にした視座から、ともすれば欠落してしまいかねません。しかし、このような地域の思想文化(これにインドを加えてもいいでしょう)に対して、中国のそれが盛んに共鳴しているという事実は、「近代」というグローバルな進み行きに対するひとつの応答として、おろそかにはできない要素なのかもしれません。

Monday, July 9, 2007

中国哲学研究

『中国哲学研究』系东京大学大学院中国思想文化学(东亚思想文化)专业的博士生所主办的学术刊物,自1990年创刊以来已刊出了22辑。在该刊物上发表过论文的年轻学人如今在日本、韩国、中国、台湾、美国等国家和地区中国研究界中都有举足轻重的地位和声誉。
新近出版的第22辑也刊载了拙文。当然,拙文无法与先前众多优秀的文章相媲美,只是借此机会广泛宣传以期让更多的有识之士认识这个刊物而已。点击此处即可链接“东大中国哲学研究会”网站,可参阅各辑目录,欢迎选购。

東大で中国思想文化学を専攻している大学院生が中心となって編集している『中国哲学研究』第22号がこのほど刊行されました。拙稿も掲載されています。上のリンクからどうぞ。

Monday, July 2, 2007

香港回归十周年

わたしは中国内モンゴルに短くはない期間住んでいたわけですが、そこは、人口的には多数を占める漢民族を中心にして、モンゴル族や回族、満族、朝鮮族、ダフール族、その他数多くのエスニック・グループが混在して生活している地域でした。
基層と呼ばれる底辺の村落に行くとモンゴル族と漢族との間の不和が残っていて、「綜合治理」などと称する融和政策を展開していました。あれから10年になりますが、その状況は基本的に変わっていないと思います。モンゴル族のなかには、「わたしたちは漢人とちがって……」と、漢人のよくない風俗を揶揄しながら、軽い憂さ晴らしをしている人も多くいました。
そもそも「内モンゴル自治区」でありながら、人口の多数派が漢族であり、そのほとんどが関内(つまり万里の長城の内側)からの移民の子孫であることを思えば、内モンゴルでは「漢化」がもはや後戻りのできないところまで進んでしまっていると言えるわけです。実際モンゴル語を母語としないモンゴル族も多いですし、モンゴル語自体も地域によってはクレオール化が進んでいるように聞こえます。
一方で、そこに暮らす漢族の人々はといえば、何かといえば羊の肉を準備し、酒に興じるとモンゴル民謡(漢語バージョン)を歌うなど、文化風俗の点ではモンゴル式のほうがむしろマジョリティを獲得しているようで、こちらは「モンゴル化」が浸透しています。もちろん、「わたしたちはモンゴル族とは違って……」と、モンゴル族のよくない風俗をあげつらって、自分を高みにおこうとする人も多くいました。

そもそも、ヨーロッパ全体にも匹敵しようかという大きな面積を持つ「中国」という国家がなぜ成立しているのでしょうか。「国家とは合法的に暴力を使用可能な唯一の主体である」といわれますが、そうであるならば、この巨大な地域システムは、暴力の合法的行使主体を数量的に極力減らすことによって成立しているわけで、人口比で見た場合、暴力使用権所有者の数が世界的に類を見ないほど極端に少なくなっていることに注意すべきではないでしょうか。つまり、中国というシステムは、暴力への依存度を極小化すべくして成立している、たぐいまれなシステムだともいえるわけです。では一体どのような力がこの巨大なシステムを支えているのでしょうか。わたしはこれに関する研究があるわけではありませんが、一元的な権力集中メカニズムが強権を発揮して現行秩序を維持しているという仮設は、これだけの面積と人口を有するこのシステムに対しては、さほどの有効性を持っていないのではないかと思います。

田島英一氏は「鼓腹撃壌」ということばを使って、比喩的に次のように語っています。 (『中国人、会って話せばただの人』、PHP新書、2006年)

帝堯は、みずからが天子としての合法性を備えているのかどうかを確認すべく、微服に身をやつして街に出た。そこで耳にしたのが、腹鼓と踏み脚でリズムをとる、老人の歌である。「日出でて作し、日入りて息ふ。井を鑿ちて飲み、田を耕して食らふ。帝力何ぞ我に有らんや」。要は、我々は日々労働し、自力で生きていたいように生きているのだから、お上など知ったことではない、という意味だ。帝堯は、それをよしとした。「鼓腹撃壌」する「民」のイメージは、たぶん、今でも変わらない。このような田園風景のなかで日々を送る民衆にとって、誰が共産党中央の指導者であるか、執政党の階級属性が何かなど、知ったことではなかろう。

もちろん、「鼓腹撃壌」の生活を乱すような力は徹底的に排除されるべきでしょう。田島氏はこう付け加えることを忘れてはいません。

しかしどうあれ、「鼓腹撃壌」の世界において、武器を手に侵入してくる破壊者は、絶対的に悪だ。

ただ一方で、ここに欠落しているのは、皇帝権力の合法性を賦与している「天」はすなわち「公」であるということです。今日では皇帝はもはや存在せず、共和国体制ですから、「鼓腹撃壌」の日常を守るためには、なおさら国家理性の力を借りる権利も必要もあるでしょう。国家が公正と理性を体現している/するべきだという考えは、いわゆる「钉子户」問題のときにも象徴的に示されていました。
わたしが思い出すのは、映画『英雄HERO』が、「天下」のフレームワークのなかでの文化アイデンティティを思考しようとしていたことです。あの映画は張芸謀の失敗作として評判がよろしくないようです。たしかに「天下」の登場のしかたは陳腐に見えるかもしれません。しかし、趙の末裔(章子怡)だけが最後に生き残り、侠客が滅んでいくあたり、この映画もなかなか侮ることができないものだと感じるのは、わたしがオメデタイからでしょうか?

民族自治制度にせよ、特別行政区にせよ、その構想は、あれかこれかという二項対立を超えた「多元一体」的統合モデルの模索であると言えるでしょう。矛盾を含みつつそれを一元的に解消することなく維持発展していくということなのだと思われます。