Tuesday, June 26, 2007

中国における1960年代の消失

拙訳の汪暉「中国における1960年代の消失(下)-脱政治化の政治をめぐって-」が掲載された『思想』第999号が発行されたようです。汪暉氏の単発の論文としては、「グローバル化のなかの中国の自己変革を目指して」(『世界』1998年10、11、12月号)以降、最も重要なものではないかと思います。また、中国の批判的言説におけるカール・シュミット受容のひとつのケースとして見るのもおもしろいのではないかと思われます。
参考までに、原題は、《去政治化的政治、霸权的多重构成与六十年代的消失》でした。

外国事情(アジア事情)ユニット3ミニ・レポート課題

  • 「思考課題」について、800字以上のミニ・レポートを作成しなさい。ワープロの場合は、末尾に字数を記すこと。
  • 締め切り:7月2日(月)18:00。
  • 提出先:石井研究室(27-514)のポストに投函すること。

思考課題:

授業で学んだ背景を頭に入れた上で、映画『芙蓉鎮』を観賞しよう。

Monday, June 25, 2007

日本的实用主义和鹤见俊辅

有一则报摘,翻译如下(文章来源:朝日新闻2007年6月24日。点击网络版):

《鹤见俊辅新著重新思考实用主义》

著名哲学家鹤见俊辅本月25日迎来其85岁生日。他的新著《偶然生在这个世界:半个世纪后的“美国哲学”讲义》(『たまたま、この世界に生まれて-半世紀後の「アメリカ哲学」講義』)这一天将刊行。鹤见曾十几岁时赴美就读于哈佛大学,1950年发表其处女作《美国哲学》,论及了“实用主义”。他在新著中回顾了当年的思考并探索对未来的展望。鹤见在自古以来扎根于乡土的生活智慧中看到了实用主义。
实用主义的观点认为人的观念若不付诸行动或见于经验则毫无意义。1870年前后,查尔斯·帕斯、威廉·詹姆士等在美国麻萨诸塞州剑桥主持的“形上学俱乐部”孕育了这种思想。
鹤见列举了深入阅读詹姆士的夏目漱石柳宗悦,以及提倡“小日本主义”的石桥湛山等人物,认为他们都是受到实用主义思想深刻影响的日本人。与此同时,他也指出,实用主义的思想没有渗透到大学的哲学学科中去,其原因为:“大学成为了制度性的框框,没有余地容纳实用主义。”他批判道:“先有了哲学史的框架,框架外的哲学家没法进入它。这样哲学就不能思考流动的思想了。”

他认为实用主义实质上存在于学院之外的,自古以来的“土法”当中。
根据龙谷大学客座教授、科学史专家山田庆儿,“土法”一词来源于中文,指“与当地的自然条件、风俗习惯以及社会组织等相结合的独特的技术或做法”。
拿其新著所举的事例而言,北欧拉普兰德(Lapland)人深谙雪的种类,在他们各种各样的土法中,可以看到实用主义。他们有关雪的种种观念直接关系到他们的实际生活,而不是供于学者们进行分类。鹤见建议人门“要将藏于土法中的实用主义挖掘出来,从日常语言当中出发重新进行思考”。
鹤见从哈佛毕业之后,乘坐日美交换船回国。之后再也没有访问过美国。
他说“我在哈佛的时候,美国具有多样性”,但经过越南战争、伊拉克战争之后的今天,“美国开始用暴力的方式把自己的正义强加于他国了”。他对此表示担忧。他还说:“日本高高兴兴地要参与到美帝国主义的一部分。对此,我是要反对的。‘美丽的国家’日本的美仿佛纳粹的美。”

采访录

「十年文選」の刊行に併せて、『読書』に関する紹介や評論文が多くなっています。本ブログでも最近はこの話題ばかりのような気もしますが、懲りもせず、もう一つ。

「左岸文化」掲載の汪暉氏に対するインタヴュー記事です。以下はその抄訳。

南都週刊(甘丹、以下南都)読者の中には『読書』は人文雑誌なのだから、より独立した人文精神を保つべきではないか、現実の社会問題や政治問題に介入しすぎるとそうした独立した人文精神に影響が出るのではないかと考えていると思いますが、如何ですか。
汪暉:(省略)『読書』の現実介入は必要なことだと思います。ただ、わたしたちの介入のしかたは新聞のようなやり方ではなく、知識人の省察的文章、理論的文章を通じて、理論的、思弁的な視野から介入していくわけであって、直接介入していくのではありません。90年代にこの雑誌を引き受けたときには、もっと窓口を広く開けて、視野を広げたいと思っていました。当時、温鉄軍氏の文章を載せましたが、その後あのような反響が生まれるなどとはまったく予想していませんでした。医療制度改革とか、教育問題とかの議論が全部そうなのですが、わたしたちはこれらの議論が社会全体に大きな影響をもたらすとは決してのぞんでいません。わたしたちはそれほどナイーブではありません。『読書』の役割は、知識人の真剣な、厳粛な議論の場を提供するということにあり、『読書』での議論を通じて、これらの議論を公共空間での生活全体に拡げていくということです。『読書』が介入しなければ、知識人の介入もなく、現実的問題は永遠に、国家体制内での純然たる専門家同士の議論になるか、それともアカデミズムの中での学者の議論になってしまい、公共空間における生活の一部にはなり得ないでしょう。
(中略)
南都昔からの読者の中には、『読書』の最近の文章は、現実問題を議論しているので、結果として以前のものほどおもしろくないし、わかりにくいという声もあります。
汪暉:(省略)『読書』が直面しているのは、大衆文化関連の雑誌です。それらに比べれば、読みにくいのはあたりまえでしょう。ではそうした状況の下で、『読書』は学術の中へともどっていけばいいのか、それとも大衆文化を完全に取り入れるべきなのか。わたしたちはもちろん、読みやすい文章がいいと思っています。しかし、完全に大衆文化的になってしまうことはのぞんでいません。今の世代の読者と上の世代の読者とでは読書傾向が全く違います。今の世代は大衆文化に詳しいですが、上の世代はハイデガーとかニーチェのような読みにくい文章に夢中だったのです。『読書』の文章は一種のバランスを保つべきでしょう。問題に深く分け入っていけるだけでなく、できる限りおもしろく、読みやすくあるべきです。ただ、あらゆるテーマがすべておもしろい文章になるというわけではありません。これはたしかに今やろうとしてもなかなか難しい問題です。
(中略)
南都では、『読書』は一体どのような責任を担っているのでしょう?
汪暉わたしたちは『読書』が本当の意味で知識人のフォーラムになることを希望しています。それは開放的で、幅広い自由を大切にする議論の場です。90年代半ば以降、社会では思想論争がたいへん盛り上がりました。それまでの20年間をはるかに上回るといってもいいほどです。しかも、問題の複雑さも以前とは比べられないほどになりました。だから、わたしたちは、『読書』がこうした複雑な問題に関する議論を本当の意味で展開できることを希望しているのです。特にここ数年来、社会的には、また大きな変化が生じ、新たな問題が次々と発生しています。『読書』はこういうときだからこそ、こうした議論の場を提供していく必要があります。

Thursday, June 21, 2007

儒家传统和社会主义

『読書』2007年第6期の『編集後記』から。

三農問題、貧富の格差などの社会問題に関する議論が起こるたびに、伝統(とりわけ孔子と儒学)と社会主義の歴史をめぐる論争が繰り返されている。伝統を遡るのであれ、社会主義を振り返るのであれ、それらは今日の中国社会の変遷に対する反応として行われている。儒家の伝統と社会主義的思考は、短い二十世紀において、しばしば対立しあい、反目しあっていた。だがなぜ今になっても記憶の流れの中で、それらはそろって屹立しているのだろうか。孔子と魯迅は現代思想の系譜の中で対立する二つの思想的座標だ。一方に対する肯定は他方に対する批判を引き起こす。市場社会の形成プロセスにおいて生じてきた問題に対して、ともに何らかの意見を表明しようというときですら、二つの思想的伝統の牽引者たちの間には、しばしば厳しい思想的不一致が見られる。しかし絶えることのない激しいやりとりの中に、わたしたちは別様の旋律をおぼろげながら聴き取ることができる。つまり、両者を延々と続く伝統の中に組み入れて総合していく道を求める旋律だ。(中略)

思えば、儒家と社会主義を同じ脈絡のなかにおいて理解しようというのはなにも新しいことではない。80年代のころ、わたしたちは儒家思想と社会主義をそろって否定し、社会主義の失敗は実のところ中国的伝統の結果であると考えたのだった。思想的には、これは20世紀における中国的モダニティに関する自画像(伝統と近代の対立という)をかき改めることによってできあがった、初めての総合であった。今日、市場社会が形成され、グローバル化の波が押し寄せる中で、一部の知識人たちは、この両者は相互に結びつき、刺激し合うことが可能であると信じて、両者の関係を対立から疎通しあい連続性をもったものへと変えようと努力している。つまり、初めての総合は、否定というかたちで完成したが、二度目の総合は肯定というかたちで始められたのだ。(中略)

儒家伝統に対する厳しい批判と社会主義の勃興は、どちらも20世紀に生じた現象だ。20世紀の社会主義者たちは伝統に対する徹底的な訣別の中から革命を深めていく途を探そうとし、保守主義者たちは伝統を守ることの中で社会主義とその革命の進み行きに対して揺るぎない否定的態度を貫いた。したがって、両者の総合を求めていこうとするときにも、20世紀という問題を再検討することを避けて通ることはできない。(中略)

マルクスは「19世紀」を観察したときに述べている。「19世紀の社会革命は、過去からでなく、未来から自らの詩情をすくい取る」。彼はこうもいっている。「かつての革命は過去の世界史的事件を振り返る必要があった。それは自らの内実を自己欺瞞的に隠蔽するためだった。だが、19世紀の革命は、死者をして自分たちの死者を葬らせるだろう。それは自らの内実を自らがはっきりと理解するためなのだ」。19世紀から20世紀の間、未来はいつも中心的テーマだった。ポスト20世紀的な空気が充満する中で、市場化とグローバル化がわたしたちの生活をリードするパワーになっている。このような中で、未来の不確実性はわたしたちの時代にも君臨しているのだ。19世紀や20世紀のような革命の時代はもう終わった。しかし「未来」という問題はまだ残っている。総合を求めるという場合に大切なことは、過去を振り返って自らの内実を明らかにし、新たな歴史意識を再び構築して未来をひらくことだろう。


わたし(石井剛)宛てにメールを送信できる機能を新たに加えました。

Wednesday, June 13, 2007

《读书》专题研究

《左岸文化网》という文芸評論サイトの存在については、以前紹介したとおりですが(5月5日の記事)、そこにこれまた以前(5月15日)触れたことのある雑誌『読書』に関するテーマ研究論文集が掲載されています。研究を行ったのは、北京大学を中心として、清華大学、南開大学の大学院生が参加するグループです。日本の大学でもしばしば行われている(いまはどうなのか?)、自主ゼミのようなかたちの自発的な集まりのようです。もっとも、コアメンバーは『北京大学研究生学誌』という、北京大学の大学院生がつくる学術雑誌の構成員たちで、2005年に現代学術史研究をやった延長上で、『読書』をその創刊時から一気に読み直そうということになったのだそうです。以下にその概要を紹介しましょう。
  1. 师力斌《导言:知识分子的心灵史》(師力斌「はじめに:知識人の魂の歴史」)

  2. 刘岩《80年代〈读书〉与后80年代思潮--以“自由主义”和“文化保守主义”为中心》(劉岩「80年代の『読書』とポスト80年代の思潮--「自由主義」と「文化保守主義」を中心として」)……90年代の「新自由主義対新左派」の図式として表現されるようになった論争も、もとはといえば、消極的自由の追求に価値を置くリベラリズムと文化保守主義がコインの両面として共存するハイエク的自由主義を肯定するような価値観を共有していたと筆者はいいます(ここで挙げられているのは、新左派の代表的人物崔之元氏と台湾のハイエキスト林毓生氏、さらに現代新儒家の大物杜維明氏です)。

  3. 薛刚《往事与随想--〈读书〉史学类文章研究》(薛剛「往事と随想--『読書』歴史学関連記事研究」)……『読書』に90年代以来、掲載されてきた歴史ナラティヴの「書き直し」に関わる記事を、思想史、近代高等教育史、「忘却の歴史」、「マクロヒストリー」、学者史、という諸分野にまとめて紹介しています。基本的にこれらは、『読書』もまた90年代の学術史・思想史ブームという大きな文化背景の中で、話題を提供してきたことを物語っているでしょう。このうち、思想史分野に関しては、孫歌氏らの貢献として、溝口雄三氏に代表される「日本発の史的視座」の紹介と影響について触れられていることが、日本人読者の興味を引くところでしょうか。

  4. 郗戈《未来不能没有马克思--〈读书〉杂志中的马克思形象》(郗戈「未来にマルクスは欠かせない--『読書』におけるマルクスイメージ」)……「読書に禁区なし」という標語とうらはらに、80年代初期の『読書』は、イデオロギーとしてのマルクス像を遵守しながら議論を展開していたと作者はいいます。しかし、それはやがて学理としてのマルクス、周縁化したマルクス(以上80年代中後期)、近代批判言説としてのマルクス(西欧マルクス主義、90年代)へと変化していきます。このながれは、直接、近年来市民権を得たことば「公共知識人」たちの批判思想へと連結させられていきます。『読書』で繰り広げられる批判的言説のよりどころとして、マルクスがかつてのイデオロギーイメージを離れて、一種の理念型として観念されるようになったというのです。

  5. 钟城、方利维、陈小鼎、黄琪轩《〈读书〉中的政治哲学与政治科学》(鍾城、方利維、陳小鼎、黄琪軒「『読書』における政治哲学と政治科学」)……80年代には、多くの西洋政治思想が紹介され、中でも、ルソーの存在が重要であったことは、2.の中でも触れられています。ルソーは、「ブルジョア的自由主義・平等」に対する主な参照例として関心を引き起こし、同時に「一般意志」をめぐって、消極的自由と積極的自由をそれぞれ擁護する論争へとつながっていった、と2.は概括していました。また、4.では、80年代後期におけるウェーバーの影響、また、90年代以降の、西欧マルクス主義言説を主流とする状況の中での、ローティやデリダとの対話の試みなどに言及されています。一方、この論文では、外国政治制度に関する比較政治学的視座、国際関係論といった「政治科学」関連記事の整理に力点を置いています。やはり特徴的だと思われるのは、第三世界に対する関心が一貫して持続していることでしょう。また近年では、9・11後のグローバル政治に関する批判言説が、やはり、この論文でも取り上げられています。

  6. 艾佳慧《“阳阿”“薤露”的尴尬--〈读书〉中社会学类文章概观》(艾佳慧「「陽阿」「薤露」のきまずさ--『読書』における社会学関連記事概観」)……「陽阿」と「薤露」は古代楽曲の題名。通俗楽曲としての「下里巴人」や雅曲の代表「陽春白雪」とのはざまにあって、俗でも雅でもない中間性を標榜したのが『読書』だったと作者は述べています。この論文が対象にするのは社会学関連記事ですが、ウェーバーやブルデュー、フーコーらが『読書』を通じて中国に広く知られるようになり、また中国社会学の元祖ともいえる費孝通などの初期の成果への注目にかんしても『読書』の貢献は大きかったにもかかわらず、紹介の文章が、まさにその読みやすさ故にアカデミズム言語の記憶から取りこぼされてしまっていると作者は分析しています。1997年に汪暉氏や黄平氏が編集を担当するようになってから、戸籍制度改革、国有企業改革、三農問題、農民工問題などに対する記事が多く見られるようになりましたが、しかし、本質は変わっておらず、その結果として読者離れを起こしている、と作者は指摘しています。もっともこの読者離れの背景として、中国アカデミズムにおける学術生産評価制度などの仕組みが関わっていることを思い越す必要もあるでしょう。なお、かつて毛沢東がかの有名な延安での『文芸講話』で、「現在取り組まなければならないのは、「下里巴人」と「陽春白雪」をいかに統一するのか、つまり質の向上と普及との統一の問題なのだ」と述べていることが思い起こされます。
  7. 刘念《以学术介入生活--〈读书〉27载经济类文章研究》(劉念「学術から生活にはたらきかける--『読書』27年経済関連記事研究」)……『読書』における経済関連記事の特徴を年代ごとに整理した上で、『読書』が経済的問題に強い関心を持っているというよりも、現実に対する人文学的関心から出発して、経済問題をとりあげてきたのだと作者は総括しています。経済記事については、今日では数多くの刊行物があり、『読書』の影響力は非常に限定的である、とりわけ「読書体」とも呼ばれる、一般向けではない文体が潜在的読者層であるはずの大学生・大学院生すらも敬遠がちにしている、と作者は指摘します。
  8. 陈振中《三代认同时面对文学》(陳振中「三世代が同時に向き合う文学」)……「三世代」とは、①1930年代から1940年代に登場し、建国後に埋もれてしまった作家(卞之琳銭鐘書など)、②1950年代に登場し、80年代に再び「花開いた」作家(王蒙王元化など)、③80年代の大学生、もしくは当時の若手研究者(劉再復陳平原など)を指します。作者によれば、とりわけ①と②③の間の差が大きく、80年代における「九葉派」詩人に対する回憶的記事が①によって多く執筆される一方で、当時流行していた「朦朧詩」は『読書』の中でまったく無視されていたといいます。80年代以降の文学創作や文学研究は、五四以降の伝統を参照しつつ、同時に過去との分裂を体現していたのであり、その意味では、中国知識界のあり方が89を分水嶺として変質したという一般的な見方に対して、作者は疑義を呈しています。
  9. 高慧芳《〈读书〉中的黄裳》(高慧芳「『読書』における黄裳」)……黄裳氏は古書探訪や辨僞などに優れた功績をのこす蔵書家・作家で、80年代『読書』に最も多く文章を掲載した人です。考証学的な手法や文人趣味的な関心によって多くの散文を書き、それが「読書に禁区なし」の『読書』の中で、一貫した場を得続けていたということ、それ自体が興味深いことで、論文集の最後の一篇を飾るのにふさわしい論文ではないでしょうか。

さて、いろいろありましたが、最初の紹介文にもあるとおり、『読書』は学術専門誌ではないので、この研究グループが各ディシプリンごとに分担して分析を行うこと自体、当初から無理がなかったとはいえず、その点こそが、『読書』のユニークなスタイルを象徴しているとも言えるでしょう。

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Monday, June 11, 2007

小岛毅《近代日本的阳明学》

小岛毅老师最近陆续发表新著,其中大部分都是他的专业范围之外的著作,而且一发表出来,一定会引起一些反响,这应该说是在日本研究中国思想史的圈子里近年来少有的盛况。此栏标题所提的著作《近代日本的阳明学》系2006年由讲谈社出版。在日本读书界素有广泛影响的《朝日新闻》书评栏目也登载过该书的评论。小岛老师在其后序中写到:

我原来打算将本书的内容在中文刊物上连载。因为有位中国朋友曾建议我写篇介绍日本儒教精神的文章。尚无象样的解说这一事实构成了日中两国之间文化摩擦的原因之一。当是时,刚就任还不久的小泉纯一郎首相参拜了靖国神社,这一事也促使我要向中国人民好好说明事已至此的历史经过。因而我下决心要以三岛由纪夫剖腹自杀事件为支点论述阳明学和武士道之间“被建构的关联性”。

当然,小岛老师是反对任何日本政治领导参拜靖国神社的,但他的反对和其他日本批判知识分子的反对法并不一样。他甚至以开玩笑的口气说过高桥哲哉先生(以反对靖国神社著名的哲学教授)和石原慎太郎实质上都是囿于现代思想的框框,看不到问题的实质根源。据小岛老师的观点,江户时期水户学派的思想支撑着“靖国神社历史观”的文化-心理基础,而其实质便是日本本土化的阳明学思想。小岛老师用“纯粹动机主义”一词来概括此种日本阳明学的精神。

有一个惟我是善的逻辑在戊辰战争中确立了下来:只有死跟着天皇的人们才是正确的。这种逻辑来源于藤田东湖作为他的本职工作参与编纂的《大日本史》。这也是先于此书风靡一时的赖山阳《日本外史》的宗旨。现在还有些人宁可停止思考,看待二战就端赖于它是动机正确的“大义”之战,至今还宣扬其为“圣战”,而从来不去问“为什么被打败”。这种拒绝反思的态度无非是水户学的大义名分论和日本阳明学的纯粹动机主义相结合的产物。我在本书中要去论证这一点。

“戊辰战争”乃开启了明治维新的倒幕(打倒德川幕府)战争。小岛老师在新近出版的另一本专著《靖国史观》中对以倒幕运动为主的明治维新的意义进行了全新的阐释。小岛老师认为倒幕士人实非英雄,他们只是利用天皇武力推翻幕府政治的“恐怖分子”而已。也就是说,当英雄看待倒幕武士(明治维新领导)的叙事本身就是后来的主流话语所建构起来的假象。而小岛老师如上叙述的要害在于明治以后至今的日本思想运动、社会运动以及政治运动,无论是当权方发起的还是批判力量所开展的,大多都包含着“戊辰战争”以来的“纯粹动机主义”。因此他认为,仅仅反对靖国神社所代表的二战观远远触及不到靖国神社问题的本质,真正要反思的应该是以“动机纯粹”与否来对人的行动进行评判的这种日本民族“现代”心性。

不知道有没有人愿意将此书翻译成中文?我也期待此书引起反响之后在日本公共论域中会出现不同于以往的新气象。

顺便说一句:此书随处可看到小岛老师巧妙的幽默。可惜,在我听他的课的记忆中似乎没有他在课堂上开过那样玩笑的印象。