Friday, May 25, 2007

汪晖新作

岩波書店『思想』第998号(2007年6月号)に、拙訳の汪暉「中国における1960年代の消失-脱政治化の政治をめぐって-(上)」が掲載されました。7月号には後半部分が掲載される予定だそうです。汪暉氏によると、これは革命の歴史としての中国20世紀に対する考察の予備作業に位置づけられるということですが、この構想自体は少なくとも3年前には雛形がある程度できあがっていただろうと思われます。例えば、2004年8月に行われた许燕氏によるインタヴュー《“去政治化的政治”与大众传媒的公共性》は、重要な原型のひとつでしょう。2004年といえば、かの4冊本『現代中国思想的興起』が出版された年です。その序文の中で、汪暉氏は、
本書には追加されるべき内容がたくさん含まれている。例えば、中国革命とそのイデオロギーに関する歴史的分析だ。長い20世紀の中で、中国革命は中国社会の基本構成を徹底的に変革した。わたしたちはただ「中国」という範疇の連続性のみに頼ってモダン・チャイナのアイデンティティ問題を説明することはできない。
と述べています。『現代中国思想的興起』は、「「中国」という範疇の連続性」のほうに重心を置きながら、「モダン・チャイナ」生成の歴史を叙述したものです。しかし、通時的ナラティヴの形式を「歴史」ではなく、「興起」という概念によって概括したことに最も象徴されているように、汪暉氏がこの大著の中で示そうとしたのも、リニアーな連続性・一貫性においてレジティマシーを求めようとする権力性を不安に陥れるような「生成」、もしくは「生生」としての歴史であったはずです。その意味で、汪暉氏が、20世紀における革命の意味をもう一度省察しようとするのは、ほとんど必然の成り行きといってよいものでしょう。さらには、この問題意識はやはり1980年代末の魯迅研究に淵源しているというべきものだと私は思っています。
『現代中国思想的興起』は、目下、日本語に翻訳されるべき中国語著作のナンバーワンであると思われます。

汪暉『現代中国思想的興起』に関する書評集はここをクリックしてください(学術中国サイト)>>>

Thursday, May 24, 2007

现代中国哲学史

台湾大学哲学系の杜保瑞氏の《现代中国哲学在台湾的创造与发展》(台湾における現代中国哲学の創造と発展)は、現代中国哲学史の教科書的概説として比較的有効な文章だと思われます。「思与文」からのコピーです。目次は以下の通り。
  1. 前言
  2. 关于中国哲学研究方法的检视
  3. 思想史研究与哲学研究
  4. 义理研究与哲学研究
  5. 关于中国哲学方法论的检视
  6. 中国大陆的中国哲学方法论尝试
  7. 借鉴于西方哲学的方法论转化
  8. 儒释道三学研究成果的检视
  9. 现代中国哲学在台湾的创造与发展
  10. 哲学研究的目标
  11. 平等接受儒道释的价值心灵
  12. 中国哲学是理性活动的一种型态
  13. 以功夫理论与境界哲学为中心的基本哲学问题诠释模型
  14. 佛学系统的基本哲学问题诠释模型
  15. 劳思光心性论中心的方法论
  16. 牟宗三道德形上论中心的方法论
  17. 概念范畴中心的方法论
  18. 现代中国价值心灵的再取择

Tuesday, May 22, 2007

「外国事情(アジア事情)」ユニット2ミニレポート課題


  • 「思考課題」について、600字以上のミニ・レポートを作成しなさい。様式は問わない。

  • 締め切りは5月28日(月)18:00。

  • 提出先は石井研究室(27-514室)。ドア前のポストに投函すること。

  • 他からの丸写しが明らかなものは評価しない。

「思考課題」:ユニット2では、中華人民共和国の成立に至るまでの近代史を概観した。授業に基づいて、この歴史を振り返ってみよう。また、映画『黄色い大地』と『紅いコーリャン』が描き出した世界を参考にしながら、歴史と人々の関わりについて、自分なりに考えてみよう。

中国汽车业发展状况

過去数年間、WTOが自動車の競争と価格下落をもたらし、それに続いて、中国自家用車の成長と中国自動車産業全体の大きな発展がもたらされた。中国の自家用車台数は、1987年には35万台だったが、2000年には625万台となり、2005年には1848万台にまで成長した。これは1987年との比較では53倍、2000年と比べても1.96倍という数字だ。中国都市住民100戸あたりの自家用車保有台数は、1999年には0.5台だったが、昨年は3.37台となった。自家用車購入の増加が中国自動車産業の拡張を支えている。中国の年あたり自動車生産量は長きにわたって数十万台から百万台のレヴェルにとどまっていたが、2000年には初めて200万台を突破し、2005年には571万台(1.76倍)となった。
マクロコントロールの影響を受けてはいるものの、過去三年の間、中国自動車関連企業の売り上げは良好で、業界全体の利潤は平均51%拡大している。


赵晓《宏观经济继续高走,汽车时代提速可期》 (『南方週末』2006年11月16日)からの摘録。作者趙暁氏は、北京科技大学経営管理学院教授。

Tuesday, May 15, 2007

《《读书》十年文选》即出

1996年から2005年までの10年間に『読書』に掲載された論文の数々が、文集(《改革:反思与推进》、《重构我们的世界图景》、《逼视的眼神》、《亚洲的病理》、《不仅为了纪念》、《〈读书〉现场》の計6冊)となって発売されるようです。汪暉氏、黄平氏連名の序文が複数のサイトに掲載されています。『読書』が「読書に禁区なし」をスローガンに創刊されたのが1979年、1999年には20年記念のCD-ROMも発売されました。もうあと少しで30周年になろうというこの時になぜ、とも一瞬思いましたが、現在の『読書』を支えている汪暉氏、黄平氏が編集を担当するようになって10年ということなのかもしれません。今でこそ、同様のクオリティ雑誌(中国で「思想評論雑誌」と呼ばれている類のものを指しています)が多数あり、古い読者の中には、『読書』はつまらなくなったという人も少なくないようです。私自身は読者歴がまだ十年にも満たないので、比較のしようもありませんが。何はともあれ、序文の中にも書かれているとおり、この十年の間に、中国の知的言説を取りまく状況は大きく変わったというべきでしょう。80年代の「文化熱」のことが序文にも触れられていますが、最近のネット上での活発な言論状況を見ると、90年代の「学術史ブーム」のころとはまたすっかり様変わりしたような感慨を受けます。もしかすると、80年代への回帰現象なのだろうか、と思ったりもします(《大国崛起》というドキュメンタリーが物議を醸していたりしますし)。
やはり、90年代後半、いわゆる「新左翼対新自由主義」論争が、注目を集め始めたころから、つまり、正にこの「十年文集」が軌跡を描き始めてからが分岐点なのでしょうか。『学人』が目指そうとしたものは何だったのかが、改めて気になるところではあります。
翻って日本では、「国民投票法」が可決されるなど、時代と個人、正に「勢」と「理」と、そのはざまで生きていくしかない個々人の主体的選択の問題を考えさせる話題には事欠きません。中国の状況については傍観者でいるということが、一方では、何らかの「勢」のなかにコミットさせらている/していることでもあるという意識は、かつての『広場の孤独』(堀田善衞)ではありませんけれど、見落とすべきではないものではあるでしょう。

『読書』ってどんな雑誌?とたまに聞かれることがあります。正直言って、日本に同様の雑誌はないと思います。以前は、『批評空間』かな、とも思いましたが、あのような尖鋭さは『読書』にはないようです。『読書』の中では時事問題は扱われませんが、純粋に学術的な論文もまた掲載されません。時事的な背景を十分に意識しながら、それを敢えて直接語ることなく、思想・文化・学術を論じるという、巧みなバランス感覚がこの雑誌の「肝」だと思います。こういう媒体を支える書き手と読者がいるということが、中国語の言説空間の豊かな広がりを示しているのではないでしょうか。

Monday, May 14, 2007

所谓“钉子户”

中国で近年来大きな社会問題として取り上げられている「野蛮拆迁(暴力的な取り壊し)」、これは不動産開発に伴う住宅地の土地収用と家屋取り壊しが、正に暴力的な強制を伴って行われている現象のことで、最近では、重慶で立ち退きに抵抗する「钉子户(くぎ世帯)」の様子が、写真入りで日本を含む海外メディアにも多く取り上げられました
海外メディアや、海外のチャイナ・ウォッチャーたちは、最新の中国情報を中国メディアを通して得ているので、当然のことながら、このニュースについては、中国国内でも話題沸騰であったようです。左岸文化には、张宏良《“钉子户”把什么钉上了中国历史?》という文章が掲載されています。その冒頭にはこう書かれています。

数日前、重慶歌楽山のふもとで風を受けてはためく巨大な五星紅旗が中国全土、ひいては世界の注目を集めた。基礎の周囲に、20メートル以上の深い穴が掘られ、今にも倒れそうになっている古びた家屋の屋根には、この家屋の男主人が日差しを防ぐように、鉄塔のように高く中華人民共和国国旗を掲げ、女主人は、中華人民共和国憲法を手に持っている。彼らは国旗と憲法を使って、基礎が掘り起こされて今にも倒れそうな、先祖から伝わる家を守っている。

ポイントは、彼らにとって国家とは何か、ということです。張宏良氏は、このような暴力的措置に出るのは、往々にして地方の国有企業だといいながら、「国有企業」は、現在、「官営企業」に成り下がってしまったといいます。

経済的性格からいえば、国有企業は全民所有制企業であり、公有制としての性格を持つ。一方、官営企業は官僚集団独占企業であり、私有制としての性格を持つ。官営企業と私営企業は、私有制経済の基本的な二つのかたちだ。前者は集団的独占であり、官僚資本に属する。後者は私人による独占であり、指摘資本に属する。だが、両者の私的独占としての経済的性格は全く同じだ。ただ、私人による独占に比べて、集団的独占の最大の特徴は、贅沢三昧をきわめることだ。(中略)中国の勝ち組たちが「我が世の春」を日々謳歌していられるのは、国有企業改革を通じて、国有企業が官営企業に変わったことがその根本にある。

このような事情、そして、不動産開発ブームに乗った野放図な土地収用の現状については、興梠一郎氏が紹介しているとおりです。その『中国激流』では、こう書かれています。

問題の根源は、住民の財産権を保障する法律がないということである。「憲法」には2004年3月の全人代で、「合法的な私有財産は侵犯されない」(第13条)と新たな規定が設けられたが、私有財産を保障する法律は制定されていない。住民が「憲法」の条文を盾にとって立ち退きや取り壊しに反対しても、裁判所で受理もされない。ただ、この点についても政府は動きを見せ、「物権法」の起草に入っている。起草グループの一人である著名な法学者・江平教授は、「「物権法」は、個人の私有財産保護の問題を解決するために必要だ。立ち退きで発生する問題も対象だ」と語っている。

しかし、「物権法」は、こうした「钉子户」に救いの手をさしのべるのでしょうか。再び、張氏の文章を見てみましょう。

理屈上では、「物権法」が可決したばかりの今、たとえうわべだけであったとしても、法律エリートたちはこうした「钉子户」に同情を示してもいいはずなのだが、驚くべきことに、「物権法」起草グループを含む、この法律を宣伝していた法律家たちは皆、強制立ち退きを支持している。

このくだりは、いわれのない言いがかりではなさそうです。興梠氏も紹介している中国政法大学の江平氏は、「物権法」起草に関わった知識人グループの代表的人物ですが、立ち退きを支持する発言は、中国メディアで広く報道されました。彼は、司法的判断の下で正しく補償が行われることを前提として、なおも「钉子户」がその補償に不服である場合には、強制立ち退きは支持されるべきだと述べています。ただ、氏も認めるとおり、現行の法律では、補償の適切さ如何を判断するのに依拠可能な法律がないようです。
さて、これは一体どうしたことなのでしょう。日本の報道では、往々にして財産権の私有化拡大に関連する中国国内政治・経済・社会の動向を、ポジティヴな変化としてとらえる傾向があるようです。しかし、本当にそうだとすれば、このような文章、そして現象をどのように理解すればよいのでしょうか。今、中国で起こっている変化をどのようにとらえるのかということは、「新自由主義対新左派」として表象される長き論争(もうかれこれ十年近くなりました)をどう評価するかにもつながりますので、予断を許しません。
ただし、このあたりの複雑な襞をほぐしていくことなく、ただ伝えられてくることだけを見ていては、そこに意識的・無意識的に設定されている前提を隠し、その結果、大切なものを見落としてしまう可能性がありそうです。
 

Tuesday, May 8, 2007

“我们日本人”日文版

同名の投稿の日本語版です。村田先生のコラムは、リンクを貼りましたので、そちらでご覧ください。

村田雄二郎先生がご自身のブログに掲載されていた文章は、興味深いものでした(チベットに関する『教養学部報』からの抜き書きです)。このうち、「大チベット」にかんする疑問や多民族混在の現象に関する分析の仕方は、蕭亮中氏の議論を思い起こさせるものがあります。「民族」という固定観念を取り払うことによって、わたしたちは文化が交錯するより豊かな「調和」的空間を想像できるのかもしれません。中国における民族自治が最終的に目指していたのは、民族差異の克服ということでしたが、それは間違っていないと思われます。しかし、見方を変えてみると、いわゆるトランス・ナショナリズムのポスト近代論は、一方で、別の問題を隠蔽しているように思われます。今日では、少なくとも西側資本主義のコンテクストの中では、トランス・カルチャー、トランス・ナショナリズムは一種ポリティカル・コネクトネスであるかのような気配さえあります。わたしたちは自らの国民的アイデンティティを取り払って、主体的な個人として他者に向き合うべきだとする議論もあります。しかし、仮に体に焼き付けられている「日本国民」としてのしるしを消し去ったとしたら、この国、この民族にまつわる過去を一体どうやって自らの問題としてとらえ直せるのでしょう。この国がまだあの時代から遺された負の遺産を清算し終わっていないときに、わたしたちは本当に近代主義的な「国民」から、ポスト・モダンなトランス・ナショナリズムへと軽やかな飛躍を遂げていいのでしょうか。張旭東氏は、グローバリゼーションに関する有名な北京大学連続講演の際、終始「わたしたち中国人」ということを強調していました。わたしがいわんとしていることは、張氏の意図と必ずしも一致してはいないでしょう。しかし、「過去から期待されている」のであればこそ、「わたしたち日本人」という、この、あるいはすでに古くさくなってしまったかもしれない呼称をもう一度強調するべきなのかもしれないとも思うのです。

“我们日本人”

东京大学(驹场)地区文化研究专业教授村田雄二郎老师载于其博客上的一篇报摘(东京大学《教养学部报》),很耐人寻味。现转译如下:

当我们怀着这种憧憬或者忧虑之念试图建构在当代语境中具有积极意义且富于生产性的有关西藏这一地区“文化”的某种话语之时,我们所标榜的“地区文化研究”所包涵的各种问题立即浮现上来。如何定位并界定西藏这一“地区”的范围?其实,这个问题本身就是一个重大问题。我上面提到过“西藏自治区”,无须讳言,设在印度的达赖逃亡政府对此提出抗议,说这是中国政府擅自划定的。行政上的区域划分和民族文化圈域之间有不一致性,这可以说是世界上常见的现象,所以,他们所说在此层面上是有一定道理的。但是,他们所谓“我们西藏”的圣地的范围还包括东北西藏(青海、甘肃以及四川的部分地区)和东南西藏(云南和四川的部分地区)。的确,有很多藏族人民一直生活在这些地方,但其中大多都是多民族杂居地区,因此,这种“大西藏”实包涵汉族、蒙古族、穆斯林以及其它众多民族。不仅如此,就看西藏内部至今还存在着很难相互沟通的方言差距以及地方保护主义。即使万一将来实现“大西藏”的统一,新的弱势群体问题和民族问题一定会随之产生。实际上,我们稍微回忆历史就可以知道,对抗中国的西藏民族主义的产生并不在那么遥远的过去。依我所看,这无非是二十世纪这一“民族国家”的时代的产儿。在此意义上,如果说中国的民族主义和西藏民族主义是孪生兄弟,也并非言过其实吧。我们可以将围绕西藏展开的国际政治“纷争”从“地区”的视角重新视为现代民族主义的某种“症候”。另外,西藏“民族文化”的载体跨越喜马拉雅山脉分布在尼泊尔、印度、不丹等国家。当然,那里长期分享着人、物资和信息的交流;1950年代以后移居国外的藏民散居在包括欧美和日本在内的世界各地。这么一来,西藏文化在空间上的外延更是全球性的。而且,可叫做西藏离散族群的群体一面享受着发达国家的生活和文化,一面又在高度信息化的社会中加强和“祖国”之间的联系,正在重新构筑传统认同。乡土文化结合于全球主义,这也构成着地区文化研究要面对的新命题。……

这是一种很客观的分析。其对“大西藏”概念的质疑和多民族杂居的现状的分析令人不由得想起萧亮中先生的有关论述。离开“民族”观念的框框,我们可以想像更为丰饶的文化交融的和谐空间。所以,我认为,民族自治的最终目标定为民族差别的消解是对的。
但是换个角度看问题,跨国家主义(或曰跨民族主义,即trans-nationalism)的后现代思想也在另一方面遮蔽着另外一种问题。目前,至少在西方资本主义的语境中,跨文化、跨民族主义已经构成了一种政治正确。有些意见也说,我们应该先把自己的国民身分抛在后边,作为一个有主体性的个人面对他者。但是,如果真能把深刻地镶在身上的“日本国民”的印记抹掉的话,我也不知道如何能把这个国家、这个民族的那些过去看作自己的问题来对待?在这个国家还没有清算那一段历史所遗留下来的负的遗产的时候,我们真的可以从现代主义的“国民”轻松跳跃到后现代的跨国主义吗?记得张旭东先生在北大连续讲全球时代问题的时候,始终强调的便是“我们中国人”。我想说的不一定和张先生的意思一样,但我想正因为“过去给我们寄予着期许”,我们或许更应该强调“我们日本人”这一似乎已落后于时代的称谓。

写于日本国庆后。
   

Saturday, May 5, 2007

中文网络公共空间

中国のネット人口は1億3千万人いるそうです。そのうち、携帯電話からネットに接続している1700万人をを除いたとしても1億人を超える人が毎週1時間以上、インターネットを閲覧しているということになります(中国互联网络信息中心第19次中国互联网络发展状况统计报告,2007年1月公布)。
「人多力量大(人が多ければ力も大きい)」とはよく言ったもので、この1億人の裾野を持つ中国語のネット環境は多彩な広がりをもっているようです。日本でも中国のネット言論について、例の小泉首相(当時)の靖国神社参拝や、日本の国連常任理事国入りに対する反対運動が盛んだったころに、ずいぶん注目されました。残念ながら、断片的に紹介される状況は興味本位のものが多く、中国語のインターネット空間で展開されている多彩な議論の質に関する問題になかなか届かないようです。
中国を研究対象にしている方々であれば、もはや当たり前の常識になっていますが、中国語のインターネット空間で形成されている知的言説の多様さと広がりは、実にうらやむべき状況を呈していると言えます。他言語を支持していないのが何より残念なのですが、下の方に、いくつかリンクを貼り付けておきます。
こうしたサイトで繰り広げられている学術・思想的言説のなかには、ネット上で初めて公開され、あちらこちらに転載されていくもの、紙媒体の出版物に掲載されたものが、読者らによって転載されていくものなどがありますが、なかには、香港の『二十一世紀』(香港中文大学)のように、学術雑誌でありながら、過去に掲載された論文をネット上で再公開しているような例もあります。それはこうしたアカデミズム系のものばかりではなく、例えば、『南方周末』『三联生活周刊』のようなジャーナル系の新聞・雑誌も、記事をネット上に公開しています。
もともとこのブログを立ち上げた目的のひとつにも、これらの中国語サイバー空間の知的言説を多少なりとも日本語で紹介したいというのがありました。いずれにしても、こうしたハイレヴェルの言論空間がネット上で展開されている状況は、何ともうらやむべきものであると感じます。

「学術中国」:学術系サイトの代表格。
「思与文」:華東師範大学中国近代思想文化研究所が運営するサイト。
「左岸文化」:文芸批評中心のサイト。
「中国現象学」
「UTOPIA乌有之乡」

以上挙げたのはわたしが時々訪れることのあるサイトの一部にすぎません。これからも、おもしろい文章があれば、暇を見つけて紹介していく所存です。ラベル「译介(中译日)」をご覧ください。