Wednesday, March 21, 2007

艺术的生活/生活的艺术

ちょっと美しい文章を見ましたので、全文を翻訳します。

丁聡「感謝」
わたしは昨年両足をくじいてから、足をくじいただけではなく、頭までもくじいてしまい、手やあしの機能に影響が出てきました。そこで2006年3月から、『読書』で27年間連載してきた絵も中断したのです。自分ももう90の高齢ですから、描かなくてもいいでしょう、わたしの作画のスタイルも古くさいですから、今の読者にとっては大して魅力もないでしょう、ちょうどこの機会にやめてしまおう、ともとは考えていました。
わたしが本当に驚いたのは、わたしが病気になってからというもの、読者からさまざまなかたちでお見舞いやお気遣いをずっといただいたことです。87歳のお年寄りから中学生に至るまで、わたしとわたしの絵に対する思いやりにあふれていて、早く治って続けて絵を描いて欲しいと願ってくれるのでした。読者の思いやりには本当に感動させられました。まだリハビリがつづいていますが、かなりよくなってきました。ただ、絵を描くには相変わらず力が及びません。方法はひとつしかないとわたしは思いました。『読書』と読者の同意が得られれば、他の刊行物では掲載されていない何枚かの古い絵を載せていただき、読者に味わっていただきたいのです。これもわたしを愛してくださる読者への最後の恩返しということでもあります。
わたしが一生最も愛し、親しんだ人たちには二通りあります。友人と読者です。病気の間、わたしは読者から離れざるを得ず、たいへんつらい思いをしました。読者が今のわたしをつくってくださった、『読書』がこの場を提供してくれた。だからわたしは読者と長期にわたって触れあうことができましたし、ここ何十年かの生活もたいへん充実した楽しいものとなりました。わたしは『読書』と読者に感謝します。わたしは皆さんのことを永遠に記憶し続けます。ありがとうございました。
丁聡
2007.2
丁聡氏は風刺漫画家として、『読書』創刊以来、毎号同誌の扉を飾ってきました。市井にあふれるさまざまな現象をウィットの効いた風刺漫画にして、陳四益氏がそれに文と詩をつけた「詩話画」というコーナーです。わたしは1998年ごろから『読書』を定期購読していますが、毎号自宅に届くたびに、真っ先に見るのがこのコーナーでした。ここしばらく、何の予告もなく途絶えていたので、おおよそ予想はしていたのですが、このたびこうして正式に丁老ご自身が声明を発表されるに至ったわけです。長年の愛読者としては何とも寂しい限りですが、この文ににじみ出る温かさとおだやかさは、寂しさを超えた美しさを醸し出しているように感じられます。
中国語のことわざに、「一方水土,一方人」といいます。土地が人を育む、もちろん、ここで土地とは、抽象的な山水とか「大地」とかではなく、その土地に暮らす人々の気風というような意味に理解するべきです。老いを受け入れるということが、日本では重要なテーマになっていますが、「受け入れる」のが老いていく本人であると同時に、いや、それ以上に、その周りの人々であること、そのためのパフォーマティヴな相互尊敬のかたちがあるのではないでしょうか。丁老のことばは、もちろんその人柄の表れですが、それがそのようなパフォーマティヴィティの中で発揮されてこそ、人柄が美しさとしてことばに表出してくるのではないでしょうか。
文化本質主義批判とかトランス・ナショナリティとかが叫ばれて久しいようですが、こうしたパフォーマティヴな行為規範、中国を例にとって敢えて言えば、「礼」的規範の言語コミュニティにおける強力な統御性は、そう簡単に否定されてしまうべきものではないものと思われます。李沢厚氏の文化-心理構造も、これに通じるものではないでしょうか。

Saturday, March 17, 2007

秋风秋雨愁杀人-秋瑾女士传-

近年来,竹内的名字在中国知识界已是众人皆知了。当然,这归功于多年来在日本和中国之间致力于增进知识交流的两国知识分子,尤其是中间进行着富有成效的译介工作的中国学者。今天我要介绍的,是竹内好的盟友武田泰淳(1912-1976)。武田可谓日本战后文学派的一位健将,二战后发表了很多在日本知识界影响深远的小说和杂文,如:《论灭亡》(1948年)、《风媒花》(1952年)、《光苔》(1954年)、《森林和湖泊的祭典》(1955年)、《政治家的文章》(1960年)、《富士》(1969-1971年)、《快乐》(1972年),等等。他的成名作却早在战争期间已经刊行,题为《司马迁》(1943年)。其开头一句话至今广为流传:“司马迁是活而受辱的男人。”就读于东京帝国大学支那文学科的他,却不认同“支那”的称谓,也不满足于日本“汉学”的传统,逐渐远离学院,最终中途退学。竹内好则是他的同班同学,俩人自然情投意合,互相切磋,1934年,以欢迎周作人访日宴会为机,共同成立了著名的“中国文学研究会”。1937年应征参加侵华战争,据武田回忆,《司马迁》的构思肇始于战场上。很容易看得出来,文章开头那句话充满着对参加此次战争的懊悔和苦恼。身为既热爱中国文化又精通中国典籍的武田(他虽然鄙视日本汉学僵化的作风,但他阅读古籍的功夫堪称第一流,也有学者称,他的阅读能力甚至远胜过吉川幸次郎),就因为生在那个时代,被迫当兵。应该说“活而受辱”这句话说的更是他自己。他通过写作《司马迁》思考作为人如何面对极其严酷的历史和世界,《史记》所描绘的世界图景便是思考这个问题的有效依据。
日本战后受到中国文化(请注意,这有别于“支那文化”或者汉学所代表的文化系统)的影响而试图思考根本问题的作家,其代表性人物除了竹内好之外,应非武田泰淳莫属,而其思想至今仍可给人以深刻的启发。我在此所揭的标题便是武田1968年的一篇作品的题目,该作品1969年获得了该年度的艺术选奖文部大臣奖(武田拒绝领奖)。中国读者应该知道“秋风秋雨愁杀人”乃秋瑾绝命之词,作品就是写的她和鲁迅。武田在文化大革命猖獗于全中国之际访问绍兴,作品部分内容因此以游记似的笔法叙述。有一段写的有点意思,现在拙译如下:

在从那里几米处的地方,我们又下了车。因为我要买一顶在鲁迅的短篇小说里出现的,农民所戴的黑毡帽。跟我闯进来的围观人太多,使我挤进橱窗内侧。很多民众挤在你买东西的时候要站到的那个位置,所以我不得不绕到售货员的位子,否则无法买东西。我买上一顶帽子,试戴在头上看看大小合不合适,每次我要戴戴看,群众都乐得更要靠前挤身,让橱窗摇晃得眼看着就要砸坏玻璃。(中略)在鲁迅的孩童时代,绍兴的农民不管刮风降雨,不管是夏天的清晨还是冬天的夜晚,都戴着这黑毡帽。如果这样,秋瑾活跃在绍兴的时候,她周围的农夫一定也常戴着这种帽子。由此而推,她被处死的那天,这块土地上的农民无论是否亲眼目睹了她的死亡,一定都戴着这种黑帽子。这个事实虽然是司空见惯、平平凡凡的现象,但对我来说,好像是种非常令人畏惧的真实。

之所以“非常令人畏惧”,是同他就中国革命中无数人民的生与死要对关于人如何对峙世界和历史的一种问题进行思考有关。为什么是秋瑾?他说:

孙文为建设以汉民族为中心的共和国所作的方针的确没有错误。但如要使这个正确的方针经过了沾满血与泪的斗争之后达到实现,必须要有些异端者只忠实于各自的冲动、信念以及实行,不服从孙文路线,甚至违背了孙文的计划,前仆后继地要走向死亡。(中略)这些散沙们的激情是幼稚的,也是急躁的。但如果没有这些过于幼稚的东西、鲁莽的东西无数次地被当作跳板,那么,成功者的巧智、或者后来者的“了不起”的计划都无从证实了。

事实上、在当代中国,秋瑾也好,同时就义的徐锡麟也好,都是家喻户晓的革命烈士,并不是武田所说的无数的沙粒之中的一粒。但他想说的不是秋瑾她们作为革命英雄是否得到了应有的表彰,而恰恰与此相反,他要说革命的历史不应该表述为英雄故事,因为这种革命叙事只是给“利用革命谋私利”的人以口实而已。

秋风秋雨愁杀人的情况,不只是在徐锡麟和秋瑾被处死的那年发生的。鲁迅后来直到其临死之前,一直感受着黯淡的秋风秋雨不停地在愁杀人。不然,“打落水狗”的主张不可能在他的心中越来越变成坚固的信条。

也有人说,竹内好的思想早已经过时了,那么,武田这篇不无受到文革的政治文化思潮之影响的作品更像是古董了。但我认为,如此定论未免太苛刻了些。他的价值不关乎对中国社会文化分析的正确与否,而是通过中国的参照反观自我生存、人的生命的意义。这种态度显然异于对象化的中国研究,更不是观察态度。他也说到:

如果夏衍他们也终于难免成为落水狗的命运,那么,也许我更应该是“没落水之前已经死掉的狗”了?落水狗毕竟是个生物,正因此他也停止了落下去的动作。如果是压根不值得打的非生物的话,会否陷入连落下去的路线都不能选择的局面?

那该怎么办?我不知道武田他自己的话该怎么办。武田的这种境界如果弄不好会变成一个很虚假的东西,那样就无可救药了。现在确实时代不同,这种忐忑不安的感觉如今已一时很难令人产生共鸣,也不必一定要如此。但我认为,至少不应该因为时代不同为由抹掉或淡忘那沙子的历史。

Saturday, March 10, 2007

关于“社会主义新传统”的学术讨论

近年来活発になってきた広州の雑誌『開放時代』は、2007年第1期の巻頭に「学術的視野としての社会主義新伝統」(《作为学术视角的社会主义新传统》)と題する座談会特集を掲載しています。劉小楓曹錦清孫歌賀照田各氏など、総勢十数名が参加して行われた討論会を書き起こしたもののようです。その中で、賀照田氏は、2006年3月に一橋大学で行われた学術講演《从苦恼出发》(苦悩からの出発)と重なる発言をしていますので、以下に摘録します。

1 中国は伝統的には倫理に高く関心を寄せる社会(梁漱溟に至ってはは中国社会のこうした特徴を「倫理本位」と呼んでいた)であり、中国の社会主義教育は理想主義の強い教育であったが、改革開放が始まって20年もしないうちに、中国社会が表面上、日常生活が商業論理に染められ、日常的心理が最も商業的雰囲気にかき乱されるような社会になってしまったのはどうしてなのか?2 中国人は生活を楽しみ、苦しみに耐える力が強いとずっと思われてきた(李沢厚はこれを「楽感文化」と名づけた)民族なのに、なぜ短期間の間に、中国の自殺率はこれほどまで急速に高くなってしまったのか?こうした問題はすべて、他の民族にも共通する資本主義の問題や近代性の問題、社会的不公正の問題によるものにすぎないのだろうか?それとも資本主義、近代性、不公正といった問題以外に李珍景が気づいた中国社会主義の歴史と関係しているのだろうか?

ここで言及されている李珍景とは、彼が韓国で知り合った知識人のようです。李氏は90年代の中国を見て「社会主義の実践は必ずしもそれに相応する社会主義的主体を生み出さない」という印象を抱いたのだと賀照田氏は紹介しています。賀氏は李氏とこの命題を共有しながら、新中国建国以後の歴史を振り返っていきます。革命とその果実に対する高い期待と情熱にはじまった新中国の歴史は、伝統的な倫理観念にかわって、いわゆる「共産主義新人」に代表されるような近代的社会主義・共産主義的倫理観を理想とする国民像を描き出しました。文革後にはそれが冷め切った、虚無的な精神状態へと陥ってしまうのですが、賀氏は、「正しさ」のスタンダードを共産党を中心とする国家イデオロギーのもとで指導的に提供していったことに、この原因を求めているようです。

精神史の視点から見ると、70年代末に始まり、1992年に全面的に広がった現代中国の改革が最初に関心を向けた現実とはどのようなものだったか。多くの社会では伝統から近代への転型が比較的長い時間をかけて行われ、ある意味それは近代と伝統の間を一歩ずつ行きつ戻りつするプロセスであり、その結果、しっかりした伝統が長期にわたって近代的なものと共存していくことになる。そうした条件の下で、人々は十分な時間的余裕を持って経験に基づいた省察をする場を持って、伝統を組み替え、近代に適応していく。それに引き替え、中国の今日の改革は高度な緊迫感とコントロール能力を有する近代国家が支配しているものであり、短期間のうちにひとつの近代のかたちから、さまざまな違いの大きい別様の近代へと転じていく。時間的には急速で空間的には同時的な展開、そして内容的には広範で、振れ幅の大きい変化が生じるのだ。これらすべてにおいては、歴史の発展プロセスのなかで平静な心理や、相対的にゆったりとした時間、相対的に頼りがいのある心の支えなどを持つのは難しい。それらは自分に向き合い、自らを歴史的コンテクストに置くために必要なものだし、それらをしっかりと整理することによって、自らの命の連続性、生活の意義、心身の安定感などの諸問題を考えていくのにも必要であるのにだ。それだけではなく、他の問題を考える場合にも、こうした次元から問題を考えていくためにもそうなのだ。こうしたことができないということは、人々はしっかり、はっきりした感覚に基づいて思考することができないということで、それではもちろん外からの気分に過剰に反応してしまうのも無理はない。

賀照田氏の言語はいつも論理の展開がわかりにくく、思弁的です。しかし、こうした分析は、彼自身の生活実感にもとづいているはずです。決してわかりやすくはない、ある意味ではためらいながら紡ぎ出されているともとれるその言葉遣いこそが、非常に個人的なレヴェルの問題意識を大きな背景のもとで言語化しようとする努力(というよりあがきに近いもの)の表れであると見ることができるのではないか、とわたしは想像します。また、その意味で、賀氏のこうした問題意識は、先に紹介した楊念群氏の問題と結びつけられて、生活圏におけるより普遍的な苦悩のすがたへと想像を進めていくべきなのだというのが、わたしの直感的な感想です。